書斎という響きの中に沈む  私の終戦記念日 | 考える道具を考える

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書斎
 8月15日という日は、歴史に刻まれた日。

 1945年の夏。日本という国は、戦争に敗れた。その時、その瞬間、私はまだこの世にいない。しかし、確実に「この日」は存在した。体験していないこの日を、私は、誰かに伝えられるのか?

 ‥‥

 歴史的検証という言葉がある。何が正しかったのか‥。何故、そうしたのか‥。

 事実と推論の渦巻く中で、事実はひとつ、しかし真実はどこにもない‥。

 私は、薄暗い書斎の中で、終戦の日を追体験する。戦争とテロの違いは? いずれも正義の戦いなのでは? 「その違いはね」ある識者は言った。「税金で戦争をやるのかどうかの違いだよ。」

 なるほどね。そして、私は、考える。望んで戦争をやる人間が、本当にいるのだろうか? そこに必要性の謎がかけられて、初めて戦争という手段をとる。武器は使うためにある、といった人もいたな‥‥。ボタンは押されるために用意されている。核の脅威は高まっている。

 必要性は人間の欲が生み出すもの。欲のないところには、妬みもない。戦わなければならない理由もない。あるがままにある。そうありたいと‥‥夏に、書斎で、考えている。