光市 母子殺害事件の裁判に思う | 考える道具を考える

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 何とも痛ましい事件の裁判が、一部の弁護士により「政治的」に利用されている。安田某弁護士以下20人以上の弁護団が、この事件の犯人を擁護し、「死刑廃止論」のネタにしようとしている。

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 もし、私の家族が、無残にも暴漢によって陵辱され殺害されたら‥。私は文句なく、その犯人に対する「復讐」を誓うでしょう。その行為自体が、法に違反しているものであっても、自らの家族の命を絶ったものに対する理不尽さに対抗するには、そのような感情で対応するしか方法は考えられないのが自然だ。

 少年の再生が可能な場合に減刑が施されるとして、さて、命を絶たれた人間が再生することはない。

 この決定的事実の前で、尚且つ、犯罪者の再生を考慮するという法の概念は、多くの人に理解されることなのだろうか? 

 様々な犯罪がある。しかし、殺人という犯罪は、殺人者に情状酌量の余地はないと思うのだが‥。

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 かつて永山則夫という死刑囚がいた。彼は、タクシー強盗を繰り返し、何人もの運転手を殺害し、売上金を強奪した。死刑確定後、永山則夫死刑囚は、監獄の中で学習し、自分の犯罪が、その生い立ちの背景にある「貧困」に要因があることを「理解」する。

 そして、社会的な構造の問題点を指摘した彼の主張は、当時の革命集団の教義に反応する。貧困が殺人者をつくる。不条理な殺人は、条理の世界の中に引きずり出され、異なった論議のネタにされる。いい迷惑なのは、残された当事者の家族だろう。

 いずれにしても、社会がこうした歪みを生成させる問題点を内包していることは理解できるが、だからといって殺人が容認されることではない。

 とはいえ永山則夫死刑囚は、殺害したタクシー運転手の家族に深く詫び続けた。そのことに、この殺人事件の救いがあった。彼の死刑執行は、既に執り行われている。

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 今回の事件は、貧困が原因ではない。また、変質した性犯罪でもない。動機なき殺人だ。

 不条理な殺人の心の中は‥‥。

 カミュの異邦人に登場してくるムルソーの物語が思い出される。アルジェリアの灼熱の太陽の下で、ムルソーは殺人を犯す。その殺人は、貧困に起因しているのでもなければ、殺害した相手に怒りを覚えたものでもない。ささいなことで揉み合っているうちに、太陽が目に入ったことで犯す理由なき殺人だ。

 現代の殺人事件は、こうした不条理性に溢れている。ムルソーは、監獄の中で、司教から「神に救いを求めるよう」促されるが、彼は、殺害したという事実の前に救いはないと拒絶する。‥‥

 光市の事件の犯人には、こうした心の空虚さが感じられる。恐らく、自らは、生きたいという強い思いもなく、死に対する恐怖もないのだろう。

 そのことが、この事件の解明できない「恐怖」なのだと思う。早期の結審を望みたい。