澁澤龍彦責任編集「血と薔薇」コレクションが残したもの | 考える道具を考える

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血と薔薇1
 澁澤龍彦さんの没後20年を記念して、二つの画期的事業が行われた。

 一つは平凡社から「澁澤龍彦 幻想美術館」が出版されたこと。もう一つは、同じテーマの美術展が、埼玉県立近代美術館で開催されていること。(これは5月20日で終わる。その後地方展開)

 私が青年時代、密かに読み耽ったフランス文学者 澁澤龍彦の著作の数々。その中でも、本日とりあげる澁澤氏責任編集により誕生した雑誌「血と薔薇」は、一つの時代に大きな影響を与えた幻の専門誌として、ややマニアックに言い伝えられてきたものと解釈しています。

 エロティシズムと残酷の総合研究誌という副題のついたその内容は、いわば既成の価値観に対する最も人間的な挑戦であり、人間の本質にある光と影の「影」の部分を白日のもとにさらけ出そうとする試みのようにも思えました。

 人間が動物と最も異なる点は、生殖的な目的以外に性の行為を行うこと、言い換えれば、観念的、想念的に性行為をすること。そして、人間が人間の尊厳を貶める行為として残酷な振る舞いをすることだと指摘しています。人間の本質は、これらの「エロティシズムと残酷」の概念の考察の中で明確化するのだと言っているようです。

 まずは、1968年10月に発行された創刊第一号には、「血と薔薇」宣言が掲載されています。

 ここでは7つの宣言がなされているのですが、その一部を引用するとこんな風に書かれています。

 ‥‥一、本誌「血と薔薇」は、文学にまれ美術にまれ科学にまれ、人間活動としてのエロティシズムの領域に関する一切の事象を偏見なしに正面から取り上げることを目的とした雑誌である。‥‥

 ‥‥一、血とは、敵を峻別するものであると同時に、彼我を合一せしめるものであり、性を分化するものであると同時に、両性を融和せしめるものである。
    薔薇とは、この決して凝固しない血を流しつづける傷口にも似た、対立と融合におけるエロス的情況を象徴するものである。‥‥

 ふむ。分かるような分からないような‥。それはともかく‥創刊第一号の執筆者を見ると、当時(今でも)の最も旬な豪華執筆陣が名前を連ねているのが驚きでした。

 三島由紀夫、稲垣足穂、埴谷雄高、ポール・デフォー、種村季弘、横尾忠則、長沢節、塚本邦雄、加藤郁也、飯島耕一、そして植草甚一などなど。編集美術は堀内誠一氏。

 さらに、写真家・細江英公氏の「男の死」の特集では、当時の俳優中山仁さんの幻想的画像がのこされているわけです。(幻想美術館に掲載されています)

 内容については、一回ではとても書ききれないので、この雑誌の最もコアになる部分だと私なりに解釈している「拷問について」と題する澁澤氏の論文を引用して、その一旦をご紹介しましょう。この考察では、こんな風に書いています。

 ‥‥実に単純明快な事実から述べるが、拷問とは、人間の発明したものである。人間的領域に属するものである。どんなに残虐野蛮な行為であっても、動物のそれは、全ての生物学的必要から出たものであって、拷問の場合のように、たとえば宗教上の信仰や思想上の信念をくつがえすために、同じ人間が人間を責め苛むといったようなことは、動物の世界では絶対に起こり得ないのである。‥‥

 ‥‥明らかに人間的領域に属する拷問なるものは、やはり動物のもとには絶対にあり得ないエロティシズムに似て、一つの心理学的な探求だということができそうである。‥‥

 とはいえ、言葉どおり「三号雑誌」で終わったこの「血と薔薇」は、今からみれば、表題の刺激的な表現の割りには健康的で、学術的な雑誌でありましたね。

 (続く)