映画「パフューム ある人殺しの物語」を観た。
私生児として異臭漂う15世紀のパリの雑踏の中で産み落とされたジャン・バティスタ。パリという大都市の悪臭と汚物まみれる中で生まれた赤子は、その後、その数奇な運命の中で、自ら「嗅ぐ」ことの才能を自覚していく。そして彼が、少女の香りの中に永遠の香りを生成する秘密を発見し、殺人者となって少女から香りを作り出していく‥といった物語。
‥‥本作は究極の“香り”を求める主人公の禁断の行いを描いた作品で、世界45か国で発売され、1500万部の売上げを記録したパトリック・ジュースキントのベストセラー小説を映画化したもの。‥‥とあります。ラストシーンの750人の全裸のシーンが話題になってしまったので誤解されてしまった部分もありますが、この映画は純粋に芸術性を求めた作品であることは確かです。
ところで、映像の中で、香りを表現するのは不可能ですね。映画館の中では、上映中空調に香りが流れたところもあったようですが、これはむしろご法度ではないかと思うのです。作家や監督の意図したものとはまるで違うでしょうからね。
人間の五感の中で、音と香りは、それ自体を体験しないと感じることはできない。この映画では、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団を率いて、現代クラシック界の奇才サイモンラトルが音楽を指揮し、まさに音楽で「香り」を表現していました。これは、香りと音楽の映像上のコラボレーションの試みとして素晴らしいものだと思いましたね。
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さて、小説や詩の世界では、言葉の表現だけでは、音楽を直接聴くことはできませんし、勿論、香りを嗅ぐこともできませんね。
しかし、言葉には、十分な音楽性が、表現それ自体の中にあり、実際に流れていない音楽を感じることはできます。これが、言葉の音楽性であり、人間の想像力のたまものだと思っています。表現芸術の世界では、実際の音楽より人間のイマジネーションによって聴くことができる音楽のほうが魅力的な場合もあるのですね。
そういえば、このパヒュームという映画‥全編を通して、物語を説明するナレーションが中心の映像となっていました。中世の物語を読むような仕掛けで、映画を見ているのですね。香りの伝達のためには、音楽と言葉が欠かせない証なのだと、そう確信しました。