昭和4年9月、「改造」に初めて掲載された小林秀雄さんの「様々なる意匠」は、今でも、80年近く前の作品であることが信じられないほど新鮮に読むことができる。巻頭の引用は、アンドレ・ジイドの言葉。
‥‥懐疑は、恐らくは叡智の始かも知れない、然し、叡智の始まる処に芸術は終るのだ。‥‥
本書では、冒頭でこんな風に書いています。
‥‥吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。‥‥
(注)指嗾(しそう)とは、そそのかすこと。けしかけること。(新明解国語辞典)
この言葉に呪縛された人間の様々な意匠が、今日でさえ、意匠であることに、小林秀雄さんの思索の対象が普遍的なものであることが伺われますね。
‥‥
小林秀雄さんの講演を記録したCDが出ています。本居宣長に関する講演は、何度聴いても凄いの一言につきます。
時代に対する厳しい批評眼。現代社会が抱える問題や、知の課題について、今、小林秀雄さんが生きていたらどんな風に批評してくれるのだろうか? そんなことを思いながら、「‥若し言葉がその眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。‥‥」という暗喩の前で、今日も、つたない言葉を連ねているのですね。