人間は社会的な存在である。
個人は個を包括する社会の中で、はじめて自己を認識する。
自閉症を研究する滝川先生の、「社会的・文化的存在としての人間」では、
‥‥精神発達も言語発達も、そして知覚も、文化を獲得し、周囲の人間(精神)世界に参加していく過程のなかで述べられる。むろん自閉症のさまざまな「遅れ」も、その相対的・連続的な「遅れ」として説明される。としている。つまり、
《私たちがふだんは「知覚」と体験しているものも、純粋知覚ではありえず、自分たちの文化(共同性)の相のなかである能動的な切り取り方をして認知(認識)している。》
《私たちの認知(認識)には、歴史的社会的に形づくられ共有されてきた(広義の)文化という構造がはらまれており、私たちの精神発達とは、生れ落ちたばかりの文化(ほぼ)ゼロの状態から出発して、その文化を次第に習得していくプロセスと考えられる。従って精神発達やその遅れを、個体内部の中枢神経系の生物学的な自然過程の開花ないし障害に帰して説明するのは無理がある。
文化とは生物学的自然として脳や遺伝子のなかに存在するものではなく、人類が長い歴史をかけて社会的につくりあげてきた、いわば人工的な規範として個体の外にある存在だからである。》
少し長い引用だが、社会的存在としての「私」を認識することは、後天的な教育によるものである以上、人間同士の関係性について、根本的な教育システムを形成することが、国の役割なのではないかと思いますね。
そしてコミュニケーション、とりわけ言葉による交流という行為を通じて、リアルな関係性の温かさを感じることが重要ではないかと思います。
最近の猟奇殺人事件、いじめなどの事件のニュースを見ていて、それが、どこか別のバーチャルな世界での話しではなく、あきらかに私達の日常の中に同居しているのだと思うと、真剣に考えなければならないと思います。