ラスト・サムライ●渡辺謙のアメリカ的日本人像に何を見るのか? | 考える道具を考える

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ラスト
 幕末から明治維新へ。その時代の背景の中で、「侍」の死生観が描かれた初めてのハリウッド映画「ラスト・サムライ」がテレビで放映された。

 背景になった1870年代は、明治維新直前の日本の一大改革の時代だ。新撰組が「侍」の最期を描いたように、既に時代は近代戦争の技術に圧倒されるようになる。刀と弓で戦うこと自体に勝機はないのに、ひたすらその「形」に「侍」としての死生観を貫き通す軍団の最期‥。

 廃刀令が公布されたのが1875年だから、こうした軍団は、近代化しようとする日本政府にとっては、疎ましい存在だったといえるでしょうね。

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 この映画が描き出そうとした「侍」は、確かにアメリカ人好みのエキゾチックな日本人ではない。リアリティを追求した珍しいハリウッド映画だ。

 この映画で登場している渡辺謙は、確かに武士の頭領としての重みと悲しみを持ち合わせている演技を見事に演じていた。

 ここ数年武士道が見直され、日本的美意識が議論されるようになっている。「国家の品格」もある意味、こうした美意識の中から誕生した提言だろう。

 しかし、歴史的には武士道精神というものは、戦乱を平定した江戸文化の中で、戦う場を失った武士の生きる教科書としてくみ上げられた「平時の侍の死生観を描いたもの」であることを忘れてはならないでしょう。戦うものとして位置づけられた武士が、いわば自分の職場を失った場合に、その心をどのように維持していくのかということの教科書であったわけです。

 だから、いたずらに「美しい国」の復活のために、戦いを実際のものにしようとする政治的誘導の中で語られてはならない価値観なのですね。

 それにしても、渡辺謙の迫力は、日本人離れしているといえましょうか? そして、今年。再び渡辺謙が「硫黄島」に登場しました。渡辺謙の中に、現代日本人は、何を見ようとしているのでしょうか?