理解と記憶 | 考える道具を考える

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 絵心経
 わが師玄侑宗久禅師の「現代語訳 般若心経」については、前に触れたことがありました。

 その著書の中で、般若心経を「暗誦すること」の重要性が書かれています。

 現代の学校教育の中で、「丸暗記」という方法が廃れていると聞きました。意味や解釈などなしに、ただひたすら「暗記」することで、言葉が記憶の中のどこかに置かれていくという脳のメカニズムがあることは、脳科学者から提示されているのにですね。

 そういえば、鎌倉幕府の誕生は、「いいくに‥」と覚えていて、1192年‥という言葉は、今でもすぐに記憶から抽出されます。そのこと自体が、良いか悪いかではなく、歴史を勉強するのに、こうした歴史的事実の年代を暗記しておくということは、今でもとても役に立っているのですね。

 ‥で、玄侑禅師は、般若心経をまるごと憶え、まるごと再生することの大切さを、禅の考え方に即して教えてくれています。つまり‥。

 ‥‥「理解と記憶は、共に理知的な活動であるように思われるかもしれませんが、理解から記憶に進む際には、じつは質的に劇的な転換が起こっています。ここで云う記憶とは、断片的な知識の記憶ではありません。断片的に気に入ったフレーズを記憶するのは「私」てすが、全体をまるまるそのまま記憶する場合は「私」が記憶するわけではないのです。‥‥」

 むむ。つまり般若心経全体を暗記して唱えることは、そのこと自体が既に「私」を超えた何ものか‥ということか? 音による記憶は、その音の連なりとして、一切の思考を伴わずに出てくる、とも云っています。

 つまり、意味を理解しようとする前に、音として般若心経を記憶することが大切だということでしょうか? そのあたりは、まだ良く分かりませんが、確かに、般若心経を只ひたすら唱えるという行為は、「日々新た」という感覚に包まれることも事実なのですね。

 写真は、本著に掲載されていた「絵心経」で、今から300年前に、文字の読めない人たちが、まさに絵で音を覚えるために作られたものとか‥。