ついに、というか、やっと、というか、とうとう、というか、わが師玄侑宗久禅師が「般若心経」を語った。その出版物のタイトルは「現代語訳 般若心経」(ちくま新書 2006年9月刊)である。そう、現代語訳というのがミソなのです。本文262文字のこのお経が何故これほどまでに日本人の心をうつのか? ずっと疑問だった。
というより、私が初めて坐禅というものを体験した時に唱えたお経が般若心経だったためか、ここに経典の全てのエキスが蓄えられているという意味を解釈せずに、その音感で感受する心の響きに酔っていたといったほうがいいかもしれない。意味を問うことはなかった。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
ソクラテスが何も書き残さなかった(書いたのはプラトン)ように、お釈迦様も何も書き残していない、らしい。悟りを開いたということは、そのこと自体を書くことすら超越する。しかし、私たち凡人は、その心を書き残してもらわないと、同じ心境には辿り着けないわれですね。
だから、お弟子さんの舎利子が問うて、観自在菩薩が世尊に変わりに答えてくれたということになっています。般若心経は、観自在菩薩が答えた262文字の真理といえるかもしれませんね。
しかし、難しい。私は宗教家でもなんでもないので深くは分かりませんが、玄侑禅師の禅の解説がなければ、これほどまでに禅に関心はもたなかったかもしれません。その意味で、玄侑禅師は、観自在菩薩でもあるのでしょうか?
も少し、じっくり読んでみたいと思います。