‥‥「表現」とは所詮、「生命ある世界」のものである。
‥‥僕の誠実さは「表現」の中に「許容」の匂いをいちはやく嗅いだ。
‥‥ランボオは、精神の最も純粋な風景を一瞬見た後に、「母なる大地」にかえって来た。‥‥もはや、認識者の刃を捨てて、「黙々と働くこと」「生きること」だった。
原口統三 エチュードⅡの中の箴言の一部だ。
いわゆる「純粋」という言葉の中には、一切の妥協を拒否する冷徹な自己認識力がなければならないのでしょうね。何ゆえに「死」によってしか、その純粋さが成就できないのか、そのあたりはまだ私には分かりませんが‥。
表現することが、認識者にとって、どこまでも自己の精神の純粋性を汚すものである以上、その純粋性を最後まで突き詰めていくと、表現を拒否し、自然の中に戻っていくのか、あるいは死を選択するのか‥ということなのだろうか? ‥‥このあたりの二者択一を自己にせまるというのは凡人にはわからないものですね。
グレーゾーンの中で、ぬくぬくと生きている姿が、本当に汚されているのかどうか‥と考えつつ、それでもなお、この純粋性に心が引かれ続けているのも、また事実なのですね‥。
地獄の季節を書いて、認識の世界から立ち去ったランボーの後姿に、私は何を見るのでしょうか?