ワールドカップの決勝戦でジダンが頭突きを放った。その真相はまだわからない。
しかし全体的にはジダンに同情的だ。きっとイタリアの選手が「何か侮辱的なこと」を言ったのだろう、と。
ジダンの表情には、どこかいつも、悲しみが隠されているように見えた。天才なのに何故そんなに悲しい目をしているの? そこにジダンの魅力もあった。
サッカーが日本の土壌に根付くには、あと百年かかる、いつもの私の言葉だが、スポーツの土壌はそう簡単には日本には根付かないと思う。
アジアの予選にやっとこ勝ち残るだけが、精一杯だろう。ジダンの悲しい眼差しの奥には、長い時間の蓄積が隠されているのだ。
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寺山修司の話をいきなりしよう。
田園に死す、という映像を反復してみている。1974年に製作されたこの幻想的な映像は、恐山というシチュエーションとともに、強烈な印象を私に残している。
寺山修司の短歌集「田園に死す」を映像化したものだが、特に次の短歌が、この映像の基調になっているように思える。
売りにゆく柱時計がふいになる横抱きにして枯野ゆくとき
鳴り止まない柱時計。その柱時計を抱えて恐山を行く主人公。そこに、継続する歴史の不思議。自らの生まれ育った境遇を恨むでもなく、そこに反旗を翻す。そのことによって自己のアイデンティティを確認せざるをえない血の継承。
この幻想映像が記憶の底で映写されている私の目には、ジダンの頭突きの意味がわかるような気がしてならなかったのです。
今年10月、この田園に死すが歌舞劇として舞台の上で演じられるという。楽しみだ。