司馬遼太郎さんの予言を再読する | 考える道具を考える

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司馬
 2006年も半年が過ぎた。

 今年の文藝春秋 新年号に養老孟司さんが「司馬遼太郎さんの予言」を書いていた。この論文が好きで、いつも手元において読み直している。

 その中で養老さんは、観察者司馬遼太郎についてこんな風に書いている。

 ‥‥「街道をゆく」がその典型だが、司馬さんは実際にその場に足を運び、対象の前に立ち、何かを見て、何かを感じることを大切にしていた。その「大きな耳」で、過去の膨大な資料から聞こえてくる音を漏らさず聞き取りながら、「大きな目」で視界に飛び込んでくる光景を捉え、自分の考え方を養っていった。‥‥

 司馬さんの視点に着目したきわめて重要な指摘だと思う。

 そして、この姿勢が、こんな主観と客観のバランスについて問題点を指摘することに繋がっている。

 ‥‥本来「よく見る」ことは自分の主観と徹底的に向き合うことで、どんな人もそうしているはずなのに、見たこと感じたことを無理に情報化=客観化しようとする。あまりにも情報化を進めてしまうと、人は「混同」を起こし、「客観性」の幻想に捕らわれ、後に残るのは一見柔らかそうでも中身はガチガチの頭ということになる。‥‥

 なるほどね。作家司馬遼太郎の主観力は、それが表現された段階で客観化されているものの、その評価の底には、こうした作家の観察する力があるから共感できるんだな‥と思う。

 「あちら側の世界」と「こちら側の世界」と二分して新しいインターネットの時代を予測している人もいるけれど、やはり、人間の営為には、手ざわりの感覚、事物の実感が欠かせないと思った。