カリスマ寺山修司のアフォリズム | 考える道具を考える

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The instrument which I think

我らが世代のカリスマ寺山修司が、2006年の今日を生きていた場合、どんな箴言を残してくれたろうか? 

芝居が劇的空間から飛び出して、まさに「町の中に出た」時、人間の想像力は行き場を失って町の中を彷徨うことになったのではないか?

そんな風に語るのではないだろうか?

1980年前後に晴海で開催された三部作の一つ「レミング」がDVDになって販売されている。ほとんど暗闇の中で展開されるその映像は、幻想的な寺山の独自の映像世界を経験している私としては、何だか暗くてよく見えない‥状態でいらついた。

それにしても、町の中で壁が消失したら、人々がどのようになってしまうのか、レミングは見事に描いている。

「文明がなくならない限り、壁の消失はあり得ないのだと少年は思った。それならば壁抜け法を見出さなければならない」

「壁‥それは部屋を仕切るだけではない。時には内面化の喩として、個人の身体をも仕切っているのだ‥‥とある。」

1980年代から僅かに20年たらず。レミングが描いた壁の消失は、確実に現代の私達の内面に浸透し、私達のイメージの中の現実感を消失してしまったのだろうか?
それにしても、壁のない時代に生まれてきた若者たちに、新たな壁を作りなさいと再び叫ぶほどの元気もない私の世代は、ただおろおろするばかりなのだ‥。

だから、寺山修司の箴言が欲しいとおもうのだ‥。

私がどうしても拘っている寺山修司の言葉は‥‥

「われわれは、イメージの中で一度経験したことにしか現実を近づけない。
したがって、事実とは、つねに二度目の現実の別称である。」

皆さんは、どんな現実感を持っていますか?