あの日から28年【阪神淡路大震災】……。 | いーくんのテキトーブログ

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神戸市西区で土建屋やってるオタクなオッサンがホンマにど~でもえ~話を書いてるテキトーなブログですがたま~にマジメな話も書いたりしております(^-^)v

おはようございます。


今日1月17日はあの【阪神淡路大震災】があった日。


1995年1月17日……忘れることの出来ない日でもあります。


あの日の出来事は《鮮明》に憶えております。俺の住む神戸市西区でも凄い揺れがあり、当時住んでいた実家の屋根瓦がズレ落ちて隣の家のブロック塀が倒れてきてて。


当然、水もガスもダメでしたが、何とかガスは《プロパンガス》だったので使えはしましたが危なくて。で、水は明石浄水場にポリタンク持って汲みに行ってたりして。


そして困るのがとにかく町中大渋滞。こうした時は【原付】が最強だと勉強になりました。


で、俺の仕事柄《災害復旧》作業で東灘区の深江~住吉のあの辺りから灘区西灘のあの辺りをまわってて日々2トンダンプの中で寝る生活。


西区伊川谷から東灘区までだいたい5時間ぐらいかけての移動。家に帰る暇もなくて。メシは作業員の貰える救援物資、もちろん風呂なんて入れず濡れタオルで体をふく程度。寒い時だったので大変でした。


途中から垂水区~須磨区の作業に移動したけど僅か2ヶ月でまた東灘区に舞い戻って。東灘区のあの辺り、全壊~半壊の家屋が多くて悲惨な状況でした。東灘区岡本~JR住吉駅~灘区西灘辺りの悲惨な状況は今でもしっかり憶えています。


その後は国道2号線にかかる【岩屋高架橋】の新設工事を約2年行ってたんかな、この高架橋も震災で崩れ落ちてたんよね。ちょうど国道2号線と国道43号線の交わるところに架かっている高架橋。あれを作って《開通式》までやりました。


そして一番忘れる事のできない出来事はやはり【友達の死】です。当時付き合っていた彼女の友達が須磨区板宿駅近くに住んでてね。


あの時の地震で家が全壊して下敷きになってしまって。


両親は2階でその子は1階で。その子の親から《死んだ》って話を聞いたのは1週間後。


友達と3人で雨の中、何とか運行していた地下鉄で伊川谷駅から板宿駅まで行き、その後遺体安置所になっていた【須磨区民センター】まで歩いて向かって。


区民センターにつくとそこは自衛隊の炊き出し所や仮設水道・仮設トイレのある広場になってて。いわゆる《テント村》で。


で道行く人に『《遺体安置所》は何処ですか?』と尋ねると『隣の《体育館》や』と。


体育館の階段のそこらかしこに毛布やブルーシートにくるまれた遺体が置かれてて、何とも言えないニオイが漂ってて。あれが《死臭》ってヤツだったんやろな、と後々知りました。


体育館には簡易な《棺桶》が敷き詰めてあり、友達の遺体を探すのに一苦労。一応《名前》は書いてあるので……とは聞いていたけど、とにかく棺桶の量が凄くて。広い体育館に所狭しと敷き詰めてあったので。


でも簡易ながら棺桶に入れてもらえてて本当に良かった。ここに来るまでに毛布やブルーシートにくるまれていた遺体を見てきただけに。


で、1時間ぐらいかけてやっと見つけたんよね。棺桶の窓を開けて顔だけは最後に見て。何とか顔だけは綺麗にしてもらっていたからよかった。だってまだ16歳の女の子やったから。


そしてお花を置いて最後の別れをしてその場所を後にしました。


冷たい雨の降る中、また板宿駅まで歩いて向かう時3人共終始無口。今でも鮮明にその時の出来事を憶えています。


あれから28年……この日が近づくにつれ思い出しますね、あの時の出来事を。


そして生かされている命を大事にこれからも【絶対何が何でも生き抜いたる】って決めた日でもあります。


そんな今日1月17日……。


震災で亡くなられた方々にご冥福をお祈りします。