Phosgen / DJK – Weird, Wicked World!
これは中二病的なひけらかしではなくこの作品を紹介する為の良き判断材料として書くのだが「当作品が好きだ」と電子雑音関係者に話したところ「やっぱりあんた病んでるわ」と嬉しそうにある方から言われたことがある。確かにこの作品はジャケットのセンス同様にかなり病んでいる。同国人のレーベルオーナーですら「どこの誰だか知らない」という匿名性、ノイズそのものやヴォーカル処理から滲み出ると言うよりも明らかにわかる不健全性。特にDJKサイドにそれらは顕著だ。その音にはドイツのバンドらしい重厚さは無く、腐り爛れている。ここにあるのは深刻な問題提起などではなく、剥き出しの「お前が嫌いだ」と言うプリミティブな感情(彼は「憎悪」何ぞと言う難しい言葉は知らない)や安直な責任転嫁、幼児的な全能感。その態度は白痴的とすら言えそうである。その白痴的全能感をひけらかしている様が痛い中二病患者のそれでは無く、マジ物のヤバさに満ち満ちている所が何とも不気味。コイツに関わると碌なことがないと本能が告げてくる。DJKに比べるとPHOSGENはかなりまとも。少なくとも意思疎通ぐらいは出来るだろうと安心するとそれは間違い。こちらは若さ故の硬直性で人を拒絶する。完全に洗脳された暴力的思想集団の中堅よりちょっと下の幹部候補生と言ったところか。冗談も通じず、ひたすら己の盲信する偏狭な世界観を押し付けてくる。「We're Among You」何て曲名もあるが連帯感を歌ったものでなく、警告であるのはあまりにも明白。最後の曲「When Innocence Dies (Part 2)」では急に己がDJK化。本人なりのウィットなのかも知れないが、どこから拾ってきたのか「地獄の底の子守歌」だの「この辺でそろそろ女の首に赤いネックレスを云々」と日本語が聞えてくると(元ネタ不明)、「ああやっぱりこの人は気分が良くなって饒舌になったとしてもこの程度だ」と落胆させられることしきり。本当の病人とは付き合わない方が良いとつくづく思わせられる一枚。

V.A.- NE SHI
Banned Productionsからの日本人ノイズコンピレーション「音」シリーズは四作目にて終結した。時代は下り1994年、所謂ジャパノイズなる言葉が生まれたのもこの頃だったように思う。本作にもビッグネーム的存在が居並ぶがこの文章はある一人のみの為に書いた。Side fourの1曲目にMeddw Brwysgを提供しているRyuzi Ryuziである。3分30秒程度のその音はくぐもった濁音が何の変化もなくただ垂れ流されるというものだ。ブックレットを開き彼のアートワークを見る。黒地に白抜きでシツモヒ モテモテシハモ シネツラヒラつも てもたてもも タソ シネノツテ タスノ テ タメ(以下略、延々とこれが続く)と書かれている。個人的な好みの問題だが矢張りこういう得体の知れない怨念の様なものを感じさせるはノイズにひどく惹かれる。一体これは何なのかと、この人は何者なのかと考えてしまう。
思えば初期インダストリアル群の発生動機も、少なくとも一部は、怨念(若しくはその類)だったのでないか。発表から30年近くが経過した今、その怨念の所産は換骨奪胎され「あの名盤がリイシュー!」だの何だの言われ、煽情的な言葉を伴いつつも結局は「マストアイテム」的な位置に置かれてしまう(私がレビューを書き始めたのもそういう売り方に対する反発があるからだ)。恐らく本来の怨念が欠けた形で提示されるモノは(オリジナル盤でないと認めないなどという理由ではなく)、当時その場にあったその作品とは似て非なるものどころかその核となるものが無いモノなのかも知れない(勿論、そういう宣伝文句を無視し、必要な肉付けをしてその怨念を聴き取ることは出来る)。
恐らく私の頭からこの曲の存在が消えないのは、音の中に時代の中で風化することなく怨念が怨念のまま息づいているからであろう。勿論、現在進行形で怨念を抱き、作品を作っている人達がいる。私はそういう人、ノイズこそをこれからも聴きたいと思う。

V.A.-GURU MEANS SLAYER OF DARKNESS
Illusion Of Safetyが19分59秒、Hands Toが25分35秒、最後のBeequeenが21分07秒と単なるサンプラーではなくタイトルを十分意識した三者による大作。グレードの高さから電子雑音誌上でレビューしたいと思いながらもこの手の音楽を語るボキャブラリーの不足から筆が鈍り残念ながら時間切れとなってしまった。冒頭、漆黒の水脈が地下水路を流れていくかのような、若しくは夜の闇の中を何か得体のしれぬ不可視の物体がゆうゆうと横切っているかのような低音とそれに絡み付く軋む弦楽器の音が不安感を煽る。場面は一転し、墓室の中にいるような静けさ。聴覚は我知らず過敏になる。そこを抜け出ると遠くの方に光が見える。その方向に歩いていくうち、天へと昇れそうな心地になったところで突然に夢・意識は断ち切られる。そしてHands Toの曲が始まる。何かの店の中にいるような人混みの中へ放り込まれる。混濁した意識が立てる雑音に悩まされながらあちこちをさ迷い歩く。校庭や音を立てるためだけの機械があるようなシュールな工場。部屋に帰り着いてもその雑音は更に耳の奥底まで入り込んでくるかのよう。一瞬の静寂のうち、今までころころと位相を変えていた雑音は何の変化も無く単調なノイズへと変換されやがて鳴りやむ。Beequeen。数秒間、何やらの祭祀が行われているかのような幻聴が聞える。邪気そのものとも、無邪気な何かとも思える霊気が体の周りに纏わり付くような不思議な浮遊感漂う中で流れる安息の時。冒頭の不安は雲散霧消し、薄っすらとした幸福感の中でアルバムは終了する。

SNUFF-LIVE
音楽は固よりパワーエレクトロニクスをも否定するかの様なマーダー系ノイズの極北。再生が始まるとまず聴者はカセット片面約25分の間、物陰に潜み獲物を待ち続ける男の粗い息遣いだけを聞かされることとなる。それ以外の音は一切聞こえてこない。音楽的要素は皆無であり、このトラックを楽しむ方法は己自身を音源内へと投影するしかない。最後にその息遣いは何の趣向も凝らされぬままブチっと途切れてしまいA面が終わる。B面は題名そのものSound Checkで始まり、単層かつ最小限のフィードバック(それすらほとんど聞こえない場合もある)をバックに1人~2人の男の怒号が始まる。ヴォーカリストの一人はFinal Solutionを私に思い出させたが、バックのエレクトロニクスは比べ物にならないくらい薄い。B面後半より音色も増え、作為を込めたつくりや、音楽的要素が増えてくるが逆に最後まで徹底した不愛想さを貫いて欲しかったと思えるほどにA面の息遣いには説得力/圧力がある。最後には観客の拍手と歓声が上がるので、A面もそうであるのかは分からないが、タイトル通りライブ録音であるようだ。

Bacillus-Epidemic
伝染病とウイルスに取り憑かれたアメリカの人間嫌い。何かが蠕動しているかのような不吉なくぐもった雑音が奥底から聞こえてくるが、それらが突然変異し以降、矢継ぎ早のハーシュノイズが1~2分周期で展開していく。正に彼の活動の主題として常にあるウイルスの発生とそれによる伝染病の蔓延をそのまま音へ変換したかのような世界が繰り広げられる。ハーシュノイズと言えば、CD1枚1曲70分といったノリに染まっていた当時の私にとって、最長で2分55秒、最短では59秒という曲の短さは新鮮であった。以下、中に封入されているカードより。「病院は人で溢れかえる。病人と死につつある人。そして死体。人々が逃げ去ってしまった為、死体は通りに積み重なったままだ。一人、また一人と倒れていく。誰もこの病から逃れることは出来ない。地球がホストである。病は地球が感染から身を守ろうとする防御策である。寄生虫からの感染。人間という寄生虫」。人間が地球の寄生虫であるというこのマニフェストに似た様な内容を映画マトリックスでエージェントスミスが発言していて、「おお、Bacillusと同じこと言ってる」と思ったのはこれから数年後の事である。

SCIVIAS - "AND YOU WILL FEAR DEATH NOT"
ハンガリーのネオフォークバンドによって作成された、恐らくは戦前から敗戦までの日本に焦点を当てた作品。冒頭のオペラ調の独唱が終わると埃が立ち込めるようなエレキギターがかき鳴らされ、末法思想が歌われる。秋の虫達の鳴き声は男が呟やいた後に発する気の入った(気合ではない)叫び声により断ち切られ、美しいチェロ、バイオリンの旋律へと続く。川の音が聞こえ、桃太郎伝説を主題としたThe Peach Boyが歌われる。フルートとギターによる朴訥なメロディーに合わせ、淡い情感をたたえながらも淡々と歌い続ける女性がそこにいる。そして場面は暗転し、三島由紀夫に影響を受けたであろう形で、「人間宣言」が読まれる。子と父は共に傷を負い、その事によって和解する。Die Before Dying。「死を恐れぬ」という決意が凛とした声で高らかに歌い上げられる。世界がどうあろうとも己こそが世界である。己が世界であればすべてを超克出来る。最後の詩にはこうある。In the final days,from their grave,The glorious shall awaken.
PS.蛇足を承知でこの作品にもWarm regards toとして言及されているMichael Moynihan,Annabel Lee,Markus Wolffらが執筆しているTYR誌から引用する。「未だに伝統に基づいた生活をすることは可能であるし、精神的修養を行うことも可能であり、それによってこの自動人形たちの世界においても、栄えある人間、全的な男性、女性になることは出来る。そしてそれが恐らくは唯一残された、真に革命的な選択であろう」

Strumbann-Lebensraum Maidanek
Marco CorbelliのSlaughter Productionsから1997年に出たカセット。恐らくドイツ人の二人組。悪意に満ちたタイトル。ケース内部に張り付けられた紙に書かれている憎悪に満ちた言葉。勿論、誰であってもこのようなタイトルを己の作品に付け、この様な言葉を紙面上に書き記すことは可能である。ただこのカセットの中には疑いようも無い真の悪意と憎悪に満ち溢れている。作品内容は1933年から1945年にかけてドイツ、ポーランド、ウクライナ、ロシアなどで夥しい数が撮影されたであろうドキュメントフィルム、ニュースフィルム、プロパガンダフィルム、そして一個人の撮った写真などが早回しされ、スロー再生され、バラバラと物凄い速度で捲られていくかの様。そして、それらの映像に付随する憎悪、苦悶、暴力、悲劇、恐怖が音に変換される。その音が構成されているノイズであることは分かる。ただその音が混沌としている上、それに何かの念が生み出したかのような荒涼とした雰囲気が絡み付き、「音楽」からどんどんと距離が離れ、その「場」へと連れ去られるかのようで、聴き手を安住させることが決して無い。スピーカーから有害な「場」の空気が溢れ出てくるかのような一枚。彼らの作品は恐らくこの一作のみ。しかもこのカセットすら片面だけの約30分。自らの悪意と憎悪が変質しないうちに、そして何よりもその悪意と憎悪が半端者の手慰みへと堕す前にさっと踵を返し、何処へともなく消え去った彼らの去り際は見事である。またその悪意と憎悪を正しく理解し、世へ解き放ったSlaughter Productionsもまた同様に真の悪意と憎悪を持った稀有な存在であった。カバー写真はDiscogsより。筆者所有の物はうすい青色のジャケットである。Slaughter Productionsの作品には色違いのジャケットを持つものが数タイトルあった。

BUSTMONSTERS - WEEDHEAD EP
BUSTMONSTER/XPER XR - WHITEHOUSE/YOU DON'T HAVE TO SAY PLEASE



Maria Zerfall/Als Wäre Nichts Gewesen
インダストリアル周辺の音楽を聴いていると「冷戦期の音楽だなあ」と思わされることがある。あの得体の知れぬピリピリとした空気と真っ暗な冬空がインダストリアルミュージックの温床だったのだと個人的には考えている。Maria Zerfallの作品を聴くと特にその思いを強くさせられる。聖母へ向けられた救済願望と目の前にある破壊(Zerfall)への予兆、若しくはドイツ全土に散らばるかつて破壊の痕跡。それらを豊かな感性で受け止めたが故、「何事も無かったかのように」(Als Wäre Nichts Gewesen)と自閉空間へと潜り込まざるを得なかった彼女の音楽は不安と緊張に満ちたものだ。それらが頭上を旋回したり、耳元で脅迫的に鳴り響いたり、虚空をさまよったりする中での彼女の声は時に途方にくれたり、虚無的に聞こえたりする場面もあるが、奥底には「生き抜く」という意志と図太さが感じられる。その様な硬い意志の結晶が易々とその光を失うはずも無い。その光源を探し当てた彼女の弟分たちがかつての作品群を再構成したものが(恐らくは)本LPであろう。

