木古内町は道新幹線開通後のストロー現象をしのげるか?ふぁいなる・・・33/戦前のスターx | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
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☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

 
☆ウワサの 軽量級 戦前派名車たち

今回は、ホッカイドーのてつどー官僚およびJRカンブの方々をして
「高性能電車=重量級電車」とゆー公式を植え付けてしまった
戦前のスターたちを、もう少し詳しくご紹介して行きたいと思います。

そんで、その前に軽量車でもこんなスグレモノがあったんだよ!!と
ゆーのも、3車種ほどご紹介させていただきます。
しかも戦前派だよ!!
①宮城電気鉄道→現・JR仙石線:800系一族
   日本車両モハ801/日本鉄道自動車クハ881⇒モハ806
    発注ミヤデン+受け取り戦後国有化後の国鉄購入810形
②豊川鉄道クハ100(電装予定車)
③西日本鉄道<モ200ーク60ーサ80>13m車グループ

   電車の話をしているときにガソリンカーの改造車の例を出すのは反則!!
    なんて言わないこと!!!
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①<宮城電気鉄道>[800系グループ]
*モハ801形

昭和12(1937)年および昭和16年に製造された、両運転台型半鋼製並等制御電動車であります。
従来の半鋼製車のような鈍重さはきれいさーーーぱりなくなって、上下に拡大された二段上昇式の
側窓など、全体的に「明朗軽快」な印象となり、ファンからは「みちのく美人」の愛称でも呼ばれる
「ミヤデン」を代表する電車となりました。

車体は、半鋼製。側面窓配置はd2D8D2d、前面は少しR付の窓が入った貫通扉を設けています。
寸法は最大長16,350mm×車台幅2,700mm×最大高4,135mm とややこぶりのせいもあって、
ここチューモク→自重は33.5ton
電動機は56.4kW(三菱電機MB-64C)X4個搭載、歯車比は20:71(3.55)。

 ①-1)昭和12年製の2両は、日本車輌製造東京支店製。始め、制御車クハ801形(801, 802)で登場、
 ほどなく年内に電装されモハ801形となりました。
 これらは、車内はクロスシートであり、松島を一望する観光路線にふさわしい車両であったのですが、
 ①-2)昭和16年に追加増備された、同形の803 - 805は、残念ながら、時局を反映して
 オールロングシートとなっていました
(民需を圧迫してまで遂行する戦争は、始めから勝ち目なし!!)。

 ①-3)また、これも昭和16年、日本鉄道自動車製クハ881形2両(881, 882)も増備されました。
 ①-1,2)の日本車輌製と車体は同形でクロスシート。後に電装され、国有化時点ではモハ801形に
 編入されて806, 807となっていました。

*モハ810形
本形式は、
モハ801形の改良型として宮城電気鉄道により日本車輌製造東京支店に
4両(810 - 813)が発注された電車
でありました。
受け取り以前の昭和19年、ミヤデンが国有化された際の、引継車両には
入っておらず、昭和21年年8月に戦後の混雑対策として国有鉄道(運輸省)が
「モハ63形製造費の一部を削って」購入したものであり、
正式には買収国電扱いではないそーで??

モハ801形とはほぼ同形ですが、客用扉の幅が1,100mmに拡大、
その分全長が16,910mmに延長されており、座席も時節柄でしょーか?
ロングシートとなっておりました。

②<豊川鉄道> クハ100 製造初年:昭和15年 17m車  25.6t
※電装予定車であったこと、モータを装架しても絶対35tonは越えなかったであろうこと、
  私鉄電車では、東(ミヤギ)の800、西(トヨカワ)の1000と並び称された名車であることから
  制御車でしたが、あえて、載せました。

輸送力増強を目的として、昭和15(1940)年にクハ101・102の2輌が木南車輌製造
新製されました。
+++++++++++
<余計な説明ー1>「木南車輛製造」のホソク
木南車輛:戦災などで不幸な結末をむかえ、一時再興しましたが、結局ごく短い間の
復興を遂げたのみでおわってしまい(「新木南車輛」)現存せず。
 空襲にあった同社戎島工場から起こった「泉州工機」が盛業中ですが
車輛メーカーではありません。
「木南車輛 Wikipedia 」より
++++++
豊川鉄道は昭和18年8月1日、国家に戦時買収されたため、本形式は同社最後の
新製車となりました。

戦時買収に伴って本形式も国鉄籍に編入され、昭和28年にはクハ5610形
改称・改番。昭和37年に廃車となり高松琴平電気鉄道へ払い下げられ、
同社8000形電車として平成15(2003)年3月まで運用されていました。

張り上げ屋根、雨どいは客用扉上のみ、幕板部から屋根部にかけて緩やかな曲面を描く
「木南スタイル」。

構体は溶接工法の半鋼製両運転台構造で、前後妻面には貫通扉があります
(多分、同時代の陸軍工廠より溶接技術のレベルは高いと思われます)。
17m車(17,130mm)で、ほとんどが16m車であった在来の豊川鉄道車輛陣の中にあって、
おそらく来たるべく戦時工員輸送など意識したものと思われますが(それ、いーすぎ!!)、
現代にもってきても古さを感じさせない「木南スタイル」のセンスと相まって、さぞ、
「美しい車」と沿線では、映ったことでしょう。

車輌のレイアウトは、客用扉は1,200mm幅の片開扉を片側2箇所、側窓は一段上昇式。
窓配置はd2D9D2d(d:乗務員扉、D:客用扉、各数値は側窓の個数)。

車内座席は扉間計18脚の転換式クロスシートが配され、いまだ本格的戦時色に
浸かっていた時期ではありませんでしたが、すでに日中戦争も始まっており、
車輌製作も制限を受けていた鉄道会社もあると聞きます。
しかし、そんな圧力をはねのけ、闊達な「作りたいものを作るんヂャイ!!」といった
技術陣の意気込みを感じさせる出色の出来栄えとなりました。
 = =  = = = = = = = = = =
  
③<西鉄200系一党>九電20形西鉄200形
   製造初年:昭和12(1937)年ー昭和16年 13.6m車
   +博多湾鉄道(汽船)ガソリンカー改造車
****************************
<余計な説明ー2>「西日本鉄道を形成した鉄道」 <図ー3へ>
さすが大私鉄だけあって、「全路線の来歴を簡単に説明しなさい」
といっても、不可能ですので、できる限り簡単かつ明瞭で
しかもやっぱり複雑に系譜を書いておきます
#############
今回の記事関係分
 *博多湾鉄道⇒博多湾鉄道汽船→→昭和17(1942)年、九電に合併、同社・宮地岳線、さらに
                    平成19(2007)年 西鉄新宮 ー宮地岳ー津屋崎間を廃止し、貝塚線に改称。
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                     ※ 昭和29(1954)年、
               西鉄博多 - 西鉄多々良(現・貝塚)間を標準軌に改軌、600Vに降圧。
          昭和38(1963)年、西鉄博多駅を新博多電停、さらに千鳥橋へと改称、
           西鉄多々良駅を競輪場前駅に改称。
           これにより同区間は事実上福岡市内線に編入され、貝塚線と呼ばれる
            ◆正式にはこの後も宮地岳線のままでした。
         昭和54(1979)年)、福岡市内線全廃に伴い、千鳥橋(元の西鉄博多) - 貝塚間を廃止。 

         ◎平成19(2007)年 西鉄新宮 - 津屋崎間を廃止し、貝塚線に改称。
           で・・・「宮地岳線は」・・・<図ー2>へ
             博多湾鉄道汽船の本線格の一つ→九電・宮地岳線
              →一部福岡市内線化(貝塚線)+宮地岳線→貝塚線廃止
              →西鉄新宮 ー宮地岳ー津屋崎間を廃止し、再度貝塚線に改称

         ※JR香椎線:博多湾鉄道汽船が、明治38(1905)年、西戸崎ー宇美全通
                  させていたもので、先の「宮地岳線」と並んで同社の本線格で
                   ありました。
                  九電合併時、一旦、同社「糟屋線」となっていたものを、
                  コレマタ、同時期、国策で、九電に合併されていた、「筑前参宮鉄道」
                  (→九電に合併され同社の宇美線」となっておりました)と一括して、
                  昭和19年、国有化され、各々、香椎線、勝田線(赤字国鉄線指定を受け、
                 すでに廃止となっております)となりました。

        *津屋崎軌道(馬車鉄道):大正13(1924)年、博多湾鉄道汽船に合併、      
                         昭和14年九電グループになる以前に廃止。<図ー1へ>

二代目[初代は鹿児島本線の前身]:九州鉄道(九鉄)
           :いまの西鉄の本線格大牟田線:
               福岡ー(九鉄)-津福ー(大川鉄道)-大善寺ー九鉄)-大牟田
◎九州電気軌道(西鉄の名義上の中心企業、西鉄の設立日は九電の設立日[M41[1908],12.17
*(2代目)福博電車:西鉄福岡市内線tなりのち全廃
三井ミイ電軌軌道:福島町ー宮の陣ー甘木、九鉄合併後福島・宮の陣間は廃止
             宮の陣・甘木間は西鉄・甘木線として健在
**************************
<図ー1>津屋崎軌道全線、
       博多湾鉄道汽船
→西鉄・宮地岳線→同線、部分廃止後
 
  
##################################################
  <図ー2>宮地岳線
 
  ###############################
<図ー3>福岡周辺の鉄道、[現役+廃線]路線
 
   
もともと同じ鉄道だったJR香椎線と西鉄・貝塚線(元・宮地岳線)
 その鉄道は、今まで何度か出てきております、博多湾鉄道(汽船)ですが、同社は、始め、
積み出し港を、「西戸崎」に求め、海側からの軌道敷設を行ないました。
まず、「宇美」までのルートを確保し(内陸なのに<ウミ>とは九州人もやりますな!!)
糟屋炭田の採掘をほとんど手中に収めました。次に、直方までの免許を申請、許可を取り付け
迄行ったのですが、折からの戦争間不況・・・1894年日清戦争ー1904年日露戦争間、
1900-02年 紡績(綿糸づくり)のためには、原料となる綿花が必要であり、この大量輸入のため
正貨が流出。資本主義恐慌となりました。
結果、同鉄道では、筑豊炭田延長を断念せざるを得ず、、以後「糟屋炭田」に特化した
交通網整備を行っていくことになります

*二つの「宇美」駅
 ◎黒線・黒字の路線は
  博多湾鉄道(汽船)→九電・糟屋線→国鉄/JR香椎線(西戸崎ー宇美)
 ◎青線・青字の路線(吉塚ー宇美ー筑前勝田)→九電・宇美線→国鉄・勝田線
   ー赤字指定により廃線

 二つの「宇美駅」は全く独立しており、乗り継ぎは、一旦、駅舎の外に出て
 100m程徒歩連絡が必要でした。

 香椎線は、勝田線が、昭和60(1980)年に廃線になった以後は、国鉄・JRで
唯一線区の両端駅が、他線と連絡を持たない駅となりました。

<参考>
図1,3:日本鉄道旅行歴史地図帳[12]九州・沖縄
   今尾恵介・原 武史 氏 監修 新潮ムック 新潮社 平成23年6月18日
図2:Wikipedia
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 ・・・すいません・・・ここから本番です。

*九州鉄道20形電車
 西日本鉄道(西鉄)の前身事業者の一つである九州鉄道が、
昭和12年から昭和16年にかけて新製した電車であります。

制御電動車は後年モ200形と形式を改め、西日本鉄道に継承され、さらに、
晩年は甘木線専用車両として運用されていたのはあまりにも有名でありました。

九州鉄道本線(現・西鉄天神大牟田線)の大牟田までの全線開通に際して、
普通列車用として製造されました。

車体長は13.6メートルに抑えられたほかにも、各駅停車用として後続の優等列車から
次の退避駅まで逃げ切れるように、特に起動加速性能を遺憾なく発揮し得るよう、
車体は気動車の組立技法をズイショに取り入れた軽量構造となっているのが、
第一の特徴かと思われます。大きな特徴です。
(作り方は違いますが、コンセプトは阪神・ジェットカーとほぼ同じ先進的なものであります)。
国鉄キハ07系に似た正面非貫通5枚窓の流線型の前面形状は当時の流行も受けてはいますが、
むしろ気動車の設計思想に拠る部分が大きいと思われます。

 1.モ20形→モ200形

  電動車。
  昭和12(1937)年にモ21 - 30の10輌が汽車製造東京支店で製造されました。
  昭和15年、200形201 - 210に改番されたのち、翌昭和16年にモ211 - 216が
  製造され、続いてモ217 - 220を製造する予定でしが、電装品の不足から、
  制御車として製造された。

  製造当初は両運転台でしたが、昭和27年以降、編成単位の大単位化により、
  順次片運転台化や中間電動車化、連結面の貫通化などが実施されました。
  また、同時期にク250形が電装され、モ200形に編入されました(後述)。

 2.ク250形 & サ250形     

  ク250形は200形の制御車で、昭和16年にク251 - 260の10輌が製造されました。
      このうちク257 - 260はモ200形になるはずの4輌が電装できず、
  制御車クとなったものです。
  したがって、車体形状や車体長さはモ200形と同一であります。

  ク254・257 と259は昭和27-30年にかけて電動車モ200形に改造され、
  ク258→モ217、ク259→モ218、ク257→モ219、ク254→モ220となりました。
  同時期に残りの6輌は運転台を撤去して付随車サ250形に改造され、
  サ251 - 253・255・256・260となり、両端ともに貫通路が設けられることに
  なりました。 


 3.ク60形 & サ60形

  これは200形と編成を組んでいましたが、もともとは200形とは全く「縁もゆかりもない」
  別世界からやってキタ異邦人・・・ほどはなれてはいませんが、トニカク「200形」とは、
  外観は大きく異なっておりました。

  元々、昭和9年に日本車輌で製造された博多湾鉄道汽船の「ガソリンカー キハ1 - 4」で
  でありました。
   博多湾鉄道汽船が九州鉄道ほかと合併して西鉄が発足したのち、昭和19年に
       大川線に移り、キハ101 - 104と改番。
******************************************
<図ー4>大川鉄道、三井電気軌道が走っていたころ:大川鉄道のみ年表を下の説明欄に
                                    加えました。


 

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<余計な説明ー3>大川鉄道御略歴

  
<参考>
図4,余計な説明-3:日本鉄道旅行歴史地図帳[12]九州・沖縄
   今尾恵介・原 武史 氏 監修 新潮ムック 新潮社 平成23年6月18
*************************************** 

   さらに大川線の休止により、今度は昭和22年に大牟田線転入、電車化され
   制御車(ク60形)と付随車(サ60形)となりました。改造、改番は下記の通り。

キハ101 → ク64
キハ102 → サ65
キハ103 → サ62 → ク62
キハ104 → サ63 → ク63
(番号が62から始まっているのはク50形が61まで存在したため)。

   車体は戦前の気動車にしばしば見られた前面4枚窓で、側窓配置は1D10D1、
   (正面から見るとキハ41300→キハ04にも似ていますが、こちらは15.5m
          扉間窓x14です。両形式とも運転室ドアがないことにチューモク!!)
   ゆるい丸妻前面を持つ箱型差体であります。
   車体形状は違うものの車体寸法は200形とほぼ同クラスであったため、200形と
   同一系列扱いで使用され、連結面の貫通化も実施されました。

   台車は100形から流用した弓形ボールドウィンに交換されております。

   同型車に大分交通キハ100形(旧・耶馬渓鉄道100形ガソリンカーを引き継いだもの)、
   幅を若干狭め、前面2枚窓とした瀬戸電気鉄道キハ100形→名鉄ク2200形
   が知られております。



   その後も甘木線では長期にわたって使用されましたが、
   平成元年の甘木線の線路改良で600形が入線可能となり、小型車の使命は終了しました。

   同年4月29日にさよなら運転を行った後216編成を残し廃車。
   216編成は動態保存の形で残され、主に10月の甘木線の臨時電車コスモス号に使用されて
   おりましたが、寄る年波に勝てず、平成5年に廃車解体されました。

   戦前製の車輛の48歳はやや短命のような気がしないでもありませんが、
   ・気動車用の軽量機材の使用により痛みが早かった可能性がある。
   ・戦中・終戦直後の酷使、あるいは、予備車なし?での運用・・・
   ・もう少し、中堅クラスの私鉄に身売りできていれば・・・
     (あんまり、軌道もなくなったけどね・・・)ちょっとは長く働けたかな?

   結局、ツキがなかったのかもしれません・・・


木古内町は道新幹線開通後のストロー現象をしのげるか?ふぁいなる・・・33/戦前のスター



木古内の話をするつもりで、戦前の重量級高速電車、果ては軽量級電車まで
脱線してしまいまして・・・

この記事を少しでも、また最後までまじめに読み通そうとなさっておいでの、読者諸賢の
方々、毎度ご期待を裏切りまして申し訳ありません。

また最後までお読みくださいましてありがとうございました。

  カラスのクンセイ 拝