<巌流島の決闘>
小次郎はすでに待ち疲れていた。
・・・おっとっと。小次郎は実在の人物かって?さぁ??
まず「巌流島」にチョット触れておく。
その島、「巌流島こと本名・船島」は、そもそも0.1平方キロ、全周1.6kmのちっぽけなシロモノで、周囲は浅い岩礁で囲まれ、ちょっと大きめの船であればすぐ座礁してしまう厄介者で、地元の漁師にさえソッポを向かれる存在だった。
さて、このお話の主人公の一人、佐々木小次郎君は、いまや越前の兵法家・剣術家として認知されるに至ったが、ここまで大変長い道のりがあったと聞く。
初めて「巌流島の決闘」なる読み物をこの世に送り出したのが、立花峯均なる御仁で、彼の著作丹治峯均筆記(1727)の中にかかれているのだとか。ホラ、もうなんとなくアヤシーって感じないか?っていうのもさ「決闘」は1612年に行われていることになってるんだけど、口伝が100年もうまく伝言ゲームのように100%伝わってるとは思えないだろ?それに、小次郎君の例の長尺、いわゆる3尺3寸の「物干し竿(長いだけで役立たずの意味もあるとか)」の刀鍛冶「備前長船長光」が現役で活躍していていた時代から、このときの小次郎君の年齢は「おそらく」16から60歳くらいだろうと推測するしかないらしい。いーや!50歳以下ではなかった・・・ひょっとして70歳以上だったのかも・・・等々。そう!小次郎君は生年、没年とも不詳なんです。
それを江戸の草紙屋が「小次郎は自らを巌流(一説に岩流)とよび、ゆえに武蔵との戦いをいつだれとなく「巌流島の決闘」とよぶようになった、などどもっともらしく書くものだから、百年前のことをまことしやかに書くなよ!などといわれ(いや、小説家としてはひどい言われよう)、確かに決闘が1612年に行われたなどというしょーこはどこにもないらしいのだが、以来、佐々木小次郎はその実在を大いに危ぶまれ、巌流島は、相当昔から「慰霊の碑」などあったもののこれまた、架空の出来事と葬り去られようとしていたのだった。
一方の武蔵君は、さすが1612年の時点で、13歳で初めて新当流 の有馬喜兵衛 と決闘し勝利、既に連戦連勝の嚇々たる戦績を引っ提げていただけあって、若手でありながら、中央に進出を果たしたとたん、イキナリ全国区の武芸者になってしまった。
やっぱり、こいつを書くきっかけはとーきょーおりむぴっくかなー?伊調切り??
小次郎君は出だしの売り込みで失敗したのかなー?
ハイライトが一回だけだなんて・・・
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「宮本 武蔵(みやもと むさし)」
天正12(1584)年? ~ 正保2年5月19日(新暦:1645年6月13日)は、新免武蔵藤原玄信が正式名、江戸時代初期の剣豪。兵法者であり、また書画でも優れた作品を残している
京都の兵法家吉岡一門との戦いや巌流島 での試合が後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。
著書である『五輪書』は日本以外にも翻訳され出版されている。
国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている
ものの本によっては、破線以下の内容といったようなことがかかれてあり、天は「ニモノをあたえず(ぼけない・ぼけない)というのはまるっきり嘘」で、武蔵君は、現代においては、よく芸術家さんが、優れた身体能力をお持ちになって球技、馬術、トラック競技等などに活躍されておいでにもにた雰囲気なのかな?と思うきょーこの頃でありました。