「ケ号作戦」・・・二人の冴えた陸将、海将が成功させたキスカ島撤収作戦 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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  せん。

5/30に書きました「アッツ島玉砕(1943.5.29)」の続編であります。


アリューシャン列島にあります、アッツ、キスカ両島は、ミッドウェイ海戦の作戦の一部として、日本が昭和17(1942)年6月に占領してあったものでした。


日本は、この占領地を、さしたる重要拠点と考えておりませんでしたが、アメリカは、将来的に、

①北日本への爆撃隊の飛行場設置に丁度よい距離

②終戦?前後で、ソ連が北海道に「ゴムタイ」をはたらかないよーに・・・実際そーなった・・・アメリカとしては是が非でもアリューシャン列島がほしかった。


と考えていたほど、緒戦から占領されたのはツーコンのキワミとハギシリしておりました。


そこで、チョコット、息の上がってきた日本に対して、まずアメリカは、「日本に近いアッツ島」から玉砕させました[昭和18(1943)年5月29日]。


そーしますと、日本から見て、キスカ島はアメリカをはじめとする、連合国にかこまれてコリツ、しかも日本はそろそろ武器を温存しにかかっているから・・・・この年の8月からのソロモン海戦(第二次ソロモン沖海戦)の準備で、武器弾薬、燃料の備蓄に必死だったようです・・・無茶をして兵員増派をしてこないであろう(下手すると輸送船もやられちゃいますから・・・)と。


もーこの頃になると、一応は日本軍を用心はしているのでしょうけれど、明らかに、「横綱と子供」の相撲になっています。


さて・・・、キスカ島撤収作戦、ヒト呼んで「ケ号作戦・・<ケ>=<乾坤一擲>の”ケ”」は見事なまでにスマートに成功したように伝えられていますが、そーではありません。


まず、第一段階として、「これ以上駆逐艦を失いたくなかった海軍が」潜水艦を15隻も集結させ、6月に

2回に分けて約800名の傷病兵から運び出されましたが、潜水艦3隻を失い、第2回目の潜水隊司令(大佐)の戦死など、犠牲は小さくはありませんでした。これを後、第1期作戦と呼んでいます。


んでもって、やはり、海上から「高速輸送でいくべや」とユーことになりまして(第2期作戦)、アリューシャン地方独特の濃霧をを利用して「1時間」以内」に艦内に収容できれば、その後に霧が晴れてもヒコーキにつかまらないだろうと考えたのが、大役を仰せつかった「木村昌福海軍少将」でありました。


この少将、二度、キスカ湾内に接近したのですが、二度途中から霧が晴れて母港に帰投します。トーゼン上層部からは「ドンドン燃料がなくなる」「アメリカの侵攻が近くなる」とボロクソにいわれますが、じっと次のチャンスを待ちます。


そして、帰投1週後、いよいよラストチャンスと思えた日、あらかじめ、陸軍現地司令、陸軍北方軍司令官  樋口季一郎中将に「武器をもたずに乗船」を依頼しておきます。


樋口中将は、濃霧の中、大発(大型上陸用艇)のピストン輸送を行った後、艦艇はその場で廃棄、乗船者の歩兵銃も現場に放棄させ、5200名の守備隊全員乗船を55分で完了、ここに<ケ号作戦>は奇跡的な大成功で終了したのでした。


もちろん、敵国のコークーキの追撃もありませんでした。

キスカの守備隊の上陸艇と歩兵銃の遺棄は樋口司令の独断で決定したことらしく、後日問題になりかけましたが、旧軍には珍しく・・・フツーのことと思いますが・・・多数の将兵を救命しえた功労者の一人として不問にされております。


もちろん、以後の木村少将の評判が大いに上がったのはユーまでもありません。


めでたし、めでたし・・・