サンフレッチェ・モトナリ | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

尼子氏、大内氏、陶氏、等など、数々の強敵を力でなぎ倒して、中国地方を制圧した、歴戦のツワモノ、戦国大名の雄・毛利元就さんのあまりにもゆーめーなヨタ話であります。


え?いーすぎですか?


では、はじめから・・・


元就さんの最晩年、3人のお子さん(毛利隆景さん、吉川<きっかわ>元春さん、小早川隆景さん)を、病床に呼んで、


「一本の矢は一人では折れるが、三本ともなると、お前たちが三人で協力しなければ折れるものではない。世の中のことすべて同じぢゃ。

これから、お家の一大事ともなれば、常に三人で事に当たるよーに、ゲホゲホ・・・」


と、まー、こんな感じのお話でしたでしょーか?

ところが、小早川さんは、元就さんが亡くなってから、出生されていますので、この話はあり得ないということになります。


元になった話が、イソップ物語にあります。



また、このような、「詭弁」スレスレの説明もあります。

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唱歌「牛若丸」の歌い出しには「京の五条の橋の上」とありまして、現在の五条大橋の西詰に、牛若丸と弁慶の像が置かれています。

なお、牛若丸と弁慶の時代の五条大橋は、元の五条大路である松原通(現・五条通りより270mほど北)の方に架かる橋にあたるため、時代考証上の不備のように思われるが、牛若丸と弁慶の出会いはもともと鴨川に架かる橋とは別の場所であったとも言われており、「五条の橋の上」は現在の五条大橋ではないとされています。

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とエラソーに諭すよーな文章がのっているのを時折見ますが、


ぢゃ、最初に五条大橋とみんなが思ったのは理由があるわけでしょ?

火のないとこには何とかで・・・「五条の橋の上は」今の「五条大橋の上」に相当せずっていわれたら、始めはみんなびっくりすると思いますよ。

だって皆「五条大橋って上の世代からから教わってきてるもん。それをさー、一言の下に「五条大橋の上に非ず」ッてねー、だったら仕掛け人がいるはずでしょ?


そこまで明確にしようよ!お!!やる気なしか!!!


しゃーないなー。

決闘の場所を五条の大橋としたのは、明治の伽噺作家の巌谷小波(いわやさざなみ)氏の書いた「日本昔噺」によるもので、『尋常小学唱歌』の「牛若丸」もこれに従っていました。


とにかく、皆さんも、「ケンテーキョーカショ」に「アリ?」と思ったりしたときは、教科担任先生におききになったほうがいいとおもいますよ。


ところで、「美しい日本」ではないですが、「武蔵坊弁慶」は「実在か想像の人物か?」+「その根拠」をお答えになれる文科省のお役人、何人いらっしゃいましょうか?


「私、専門は日本の中世史ではありませんから」ってにげないでくださいよ。

私も専門外なんですから。