中国大返し と 山崎の戦い・その1 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
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  せん。

織田信長さんから、毛利攻略の命をうけた羽柴秀吉さん、途中宇喜多秀家さんの軍勢と合流したこともあって、チョーシよく毛利方の支城を落としていきます。


しかし、勇将・清水宗治と守兵3000が固める岡山・高松城で、アシはぴったり止まってしまいました。

今までになく、士気高く、戦上手の城です。攻めあぐねた秀吉は、5月7日から水攻めを開始します。


話は、前後しますが、高松までの間の姫路城、沼城に、足軽の十人組頭とそのチームを1個隊おき、組頭には何事か耳打ちする秀吉さん、びっくりしながらも相槌を打つ組頭さん達でした。


織豊政権以前の足軽は、農民から選抜(というより有無を言わさず徴兵)され農繁期以外の時期に兵隊さんをやっていました。

四国の長宗我部さんは、お百姓さんでも戦闘経験ある人を次第に絞って、足軽集団を次第に強くしていきました(一領具足)。


しかしなんといっても、織田、豊臣、徳川さんは完全な兵農分離で、足軽も完全な職業軍人でありましたから農繁期でも戦力が減ることもなく、他の諸大名との力は開くばかりでした。

なんせ、農繁期に攻めれば、ほとんど勝ち戦になるので・・・


話を高松城に戻しましょう。

秀吉さんは、屈強な高松城勢に対して、真っ向勝負を避け、もっとも手間がかかるが、人員損失の少ない「水攻め」という手段を選択しました。


注目すべきは、長さ4km、高さ8mの貯水の包みを12日で完成させるのですが、速さもさることながら、そのための職人さんをあらかじめ連れてきていたのではないか?、という発想が冴えわたっているではありませんか?


そんな、水攻めの最中、主君の織田さん、明智さんに6月1日、打ち取られたとの凶報が3日に入ります。やおら、秀吉さん、城兵は助けてやるから、清水氏、オヌシ腹を切れだのなんだの交渉し、これがまた、「本能寺の変」のことが毛利方にばれずに、うまく行っちゃうわけです。


この交渉がすべておわって出発したとされているのが、6月6日。同日、途中沼城で休憩、その後、姫路城でも休憩し(7日到着・9日出発:出発については多数資料あり)、簡単な日程をかきますと、移動は下のような具合で・・・

高松城ー22kmー沼城ー70km-姫路城。沼から姫路まで、約24時間。

あまりの快速に海路併用ではないかとの考えもあったとか。


私は500年前であれば、律令時代のスーパー官道(古・山陽道、11世紀ごろから衰退)が所によって32-48m幅のままで残っていたのではと「ジャスイ」します。


それを知っていた、秀吉さん、要所要所で、十人組頭と「テクノクラート」の集団に、今でいう戦闘歩兵車・・・やっぱりいーすぎか?・・・10-20人ぐらい乗れる、1-2頭立てのリヤカーのようなものをたくさん作らせて移動させたのでは?

「山崎まで」もてばいーのですから、そこでこわれたって、いーわけでしょ?それに全員乗って移動するのです。


当時の軍隊編成は、戦闘員:非戦闘員=7:3ほどで乗馬戦闘員は1%位。このとき三万人の軍勢と言っていましたから、騎馬武者は300人。輜重隊(物資輸送隊)など非戦闘員は9000人。でもこの人達は荷駄をもっているので、馬さえ調達できれば、車に分乗できます。


問題は、徒歩組をどうやって戦場に早く到達させるか?

単純に、30000-9000-300=20000-21000人もいるのですから、大変です。秀吉さんが姫路で、2日休みをとったのも、後続を待っていたからでしょう。


では、明智さんの、軍勢を15000人と事前情報がもしあったとしたら?(実際は13000人?位=戦闘員は9000人強)。では秀吉さん。15000人の7割、11000人分の徒歩歩兵の武器・人間を運べたら?・・・車が550-1100台も必要ですか?


やっぱり無理があるかなー・・・

その1おしまいです。


ゲキドーのその2につづく・・・いつ書くの?・・・さー?・・・