東郷平八郎提督 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
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  せん。

あのゆーめーな東郷元帥のちょっとしたお話です。


明治27(1894)年の日清戦争勃発。


当時の東郷大佐は、「浪速」艦長として、豊島沖海戦(高陞号事件)、黄海海戦、威海衛海戦と転戦、すべてに勝利し、すでに幕末の戊辰戦争の開戦以来の歴戦の勇士と呼び声が高くなっていました。


威海衛海戦後に少将に昇進、これはむしろ、戦歴を考慮すると遅いくらいでした。

また、同時に常備艦隊司令官と、戦時編成の連合艦隊第一遊撃隊司令官に就任し、中将となりました。


明治32(1899)年に佐世保鎮守府司令長官となり、あと、呉鎮守府、そして横須賀鎮守府・・・ゴールはもう少しぢゃないか、ぐふふ・・・とほくそ笑む東郷さんでありました。


ところが、話は一転、同34(1901)年には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任。

しかも、現地に行ってみると、建物らしい建物はほとんど建っていません。


東郷さん、当然、宮内省内府を通して明治天皇陛下に「しつもーん」

「これって、左遷ですか?」

内府が、明治天皇の直筆の返書をおし戴くように、戻ってきました。


「<確かに、対米関係に重点を置いて考えると、一見、閑職と看做されよう。しかし、来るべく対露戦を想定すれば、必ず、戦いは10-20年以内におこるであろうし、舞鶴はロシアのウラジオストク(浦鹽)軍港に対峙する形で設置された重要拠点である。今次の新設要塞の長としての適任者は、元老、海軍上層部で相談のうえ、勤まるのは貴官しかおるまいとの全員一致の意見である。心して、励むよう。


ただし、鎮守府の建物は、日清戦争で得た、清からの賠償金で建てているので、今しばらく完成までかかる。

それまでは辛抱されたい>

これで満足か?」

「ははっ」


平身低頭して舞鶴まで帰る東郷さんでした。

「でもねー、舞鶴って夏はフェーン現象で結構30度越えるし、冬は雨が多いし、早く夏の日差しと、冬の風雨をよけるお家が建たないかなー」


「それから、ニクジャガ作るキッチンもほしいなー」


一説によると、イギリスから帰ってきた東郷さんが、艦長さんになった船の料理長にビーフシチューを頼んだら「そんなもーん、しるけー」といって、ニクジャガができたとか?


しかし、当時、ビーフシチューをしらなくても、デミグラスソースと、ハヤシライスは日本上陸を果たしていたので、ニクジャガの話はヨタではないのかと・・・


それでも、今のお家はロクでもないので、駆逐艦のハンモックで寝る東郷さんでした。


「ふっ、おれって、ボートピープル?」

毎日こんな生活がつづきました。

「たいくつー」


と思っていた次の瞬間、東京に呼び戻され、三田尻(現・防府)まで列車に押し込まれてゆらされて(当時の山陽鉄道は終点が三田尻)。

「ねー、どこいくの」

列車中隊付き下士官がいたので東郷さんは聞いてみました。

「閣下!日露戦争が勃発したのです。閣下は今日から聯合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官であります」


「わかった、わかった。ところで、ここでニクジャガたべられるの?」