震災2年ーⅠでも触れましたが、3・11震災の規模・事後対策などを考え直す「モト」となった「貞観地震」は、貞観11(869)年におこり、M8.3-8.6と推定される規模で、現在「三陸沖地震」のグループにいれられています。
<当時の模様:延喜元(901)年に成立した「日本三大実録」から抜粋>
5/26(地震当日)「流れる光」が夜を昼間のように照らし、人は立っていられなかった。家屋の下敷きになる者、地割れに飲み込まれた者もいた。城、倉庫群、門が多数倒壊した。海鳴りがして、潮が川を逆流、海藻・土石も長くつながり城まで達した。内陸部も海没し、1000人ほどの溺死者を出し、田畑、個人財産はすべて流された。
文中の「城」は多賀城とされ、100%貞観期である確証はないものの、古代に水害にあった形跡があるそうです。
また「夜なのに明るくなるという<超常現象直前のきざしとされる:宏観異常現象>がはじめて文献に出てきた貴重な例だそうで・・・
そして、原文では「海岸部から海水が水平距離で内陸まですすんだ距離を「数千百里」としています。
しかしこれでは、<条里制下での「里」は「6町=109mx6=654m」>ですので、百里が数千集まると(仮に5000としてみます)5000x100x654m=327000km、仮に後世できた1里=5町の地方ルールを採用しても5000x1000x545=272500km・・・いずれにせよ30万km・・・
多賀城から海岸線まで5.5km程しかありません。
何より、日本列島の南北長が3000kmなので30万kmはいくらなんでも・・・
で、「数十百里」の間違いでは?というご意見もあるそうで、(ここでも数十を50にしてみます)50x100x654m=3270km(2725km)・・・ほんとーでしょーか?。
後世の地元活断層センターはここで30-60km(南下すると日立木、北上では高清水まで行けます)説をとっています。
この貞観という時代ですが、この地震(869年)を挟んで、
嘉祥3(850)年から仁和3(887)年まで
M7以上の地震が8回
噴火が6回
台風+津波が一回
で、プレート方自身が中心で、いずれも火山活動と連動。最大のエネルギーは地震8回目、仁和地震の
M8-8.5ではなかったかとのことです。
スペースの関係でⅡ②に続きます