私がニーチェに興味をもったのは『超訳 ニーチェの言葉』を読んでからであった。超訳なので、訳者である白取春彦氏の解釈でニーチェの言葉が書かれていた。それからニーチェについての本を読むようになり、その中で一番面白いと感じた部分である「ニーチェとルサンチマンの関係性」について、論文調にブログを書いていく。
19世紀の哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは『ツァラトゥストラ』の解説書である『道徳の系譜』で、「ルサンチマン」という言葉が頻繁に使っている。その言葉の意味は恨み、妬み、嫉みである。現代人である私たちの生活の中でもルサンチマンは存在する。たとえば、「なぜ僕はあの時こうしなかったのか」と自分を恨むことがある。自分の苦しみをどうすることもできない無力感から、それを紛らわすために怒りを何かにぶつけようとする人間の内面の働きのことこそ「ルサンチマン」である。私はニーチェ自身がルサンチマンにとらわれていたのではないかと考察している。それはニーチェの悲惨の人生を知ると非常に分りやすい。秀才であったニーチェだが、『悲劇の誕生』を書いたことをきっかけに、人生のどん底に突き落とされてしまう。まわりからは相手にされず、さらに病気と孤独に悩まされ、55歳でニーチェは息を引き取る。「ルサンチマン」とは、ニーチェ自身の問題でもあったのだ。では、なぜニーチェは「ルサンチマン」を問題としたのか。『ツァラトゥストラ』の解説と共に論いてゆく。
ニーチェは「ルサンチマンは喜びを感じる力を弱くする」と言っているが、恨み、妬み、嫉みの精神の中に入ってしまうと、喜びを感じる力が弱くなってしまう。何に出会っても、そこから良いものを感じとることができなくなってしまう。ニーチェは小さな幸せをどんな時だって感じ取れるはずだと考えている。先程も述べたが、ニーチェ自身は大変苦しい人生を送ったので、その中で自分が「ルサンチマン」に負けてしまうと、自分を取り囲む世界が「ルサンチマン」でいっぱいになってしまうので、それに負けないで、ささやかな喜びをくみとるために、ニーチェは多くの努力をしたのだ。それを説明する際に重要なキーワードが「価値の転換」である。
『ツァラトゥストラ』は聖書のパロディと言われている。新約聖書でイエスが人々の周りを回りながら説教するように、ツァラトゥストラが山を下りて説教するスタイルである。文体も聖書と似せて作られたのではないかと言われている。ニーチェはあえて聖書やキリスト教にぶつけるような形で『ツァラトゥストラ』を書いているのである。そこには「ツァラトゥストラが聖書に代わる新たな価値を提示する書」という意味がある。ニーチェ自身は牧師の家に生まれたのに、なぜ聖書に代わる価値を未来の人たちに伝えようとしたのだろうか。キリスト教は自分のことを考えることができない、自分のことを大事にできない宗教だと感じ、キリスト教は、「隣人愛」、自分のことよりも他人のことを愛しなさいという教えに疑問を持って幼少期を過ごす。そして、どうやったら自分が快活に生きられるかという考えを持つ。だから、キリスト教ではない次の価値、「価値の転換」をしなくてはならないといったのである。これからの「人類の新しい生き方」を自分は提示したという自負を持って「ツァラトゥストラ」を世の中に送り出した。
ニーチェが「神は死んだ」と言った19世紀後半のヨーロッパは、科学の考え方や批判的な精神などが出てきて、だんだんとキリスト教の神に対する信仰が薄れてきている頃であり、「神はいないかもしれない」と考えるようになった人がニーチェだけでなく存在してきた頃である。その時期に、今までのキリスト教の価値観ではない新しい価値観を提示しなくてはならないとニーチェは考えたのである。これこそが「価値の転換」である。
ニーチェは「善/悪」から「よい/わるい」に転換した。それは、基準が「神」から「自分がどう思うか」に転換していくということである。そして、ニーチェは神から見た「善/悪」の価値観の背後にはルサンチマンが潜んでいると言うのである。キリスト教は「心清く生きる」という固定的な生き方があるので、生き方の形が決まってしまう。ニーチェが提示する新しい価値観「よい/わるい」は「よい」が「絶好調な感じ、楽しい、愉快だ、ワクワク」、「わるい」が「つまらない」という考え方をベースにした「生の高揚」なので様々なやり方がある。「生の実験」、生きることは実験であるとニーチェは考えたのである。しかし、ニーチェの「善/悪」から「よい/わるい」に価値の転換をするのは容易ではありません。それまで神が一番大事と思い生きてきた人々は、その神が死んだ場合、自分が信じられるものがなくなり、目標がなくなり、軸がなくなり、自暴自棄になる。そういう状態のことをニーチェは「ニヒリズム(すべのものは無価値であるとする考え方)」と言ったのである。「ニヒリズム」の中にそのままでいると、人間は「末人」になってしまうとニーチェは言う。「末人」とは「最後の人間」とも訳されていたが、ひとことで言うと「安楽がよい、冒険しない、憧れというものを持たない」という人である。「ツァラトゥストラ」の中では、ニーチェは「末人」のことを「末人はノミのように根絶しがたい生き物である」と言っている。つまり、ニーチェからすると「人間は憧れの矢を持っていなければいけない」ということである。憧れの矢を彼方に向かって放つのが人間だと思っているのである。そうしなければ、非常に小さいノミみたいな人間(末人)ばかりになってしまうと考えたのである。では、「末人」じゃなくて何が必要かというと、それが「超人」である。ニーチェの言う「超人」とは「生の高揚」をとことん実現した人間である。「超人」はルサンチマンも持たず、ちょっとイヤなことがあってもすぐ忘れてしまい、これまでの価値観にとらわれず、絶えず創造的にクリエイティブなパワーにあふれて生きていける人のことを指す。『ツァラトゥストラ』の中には、綱渡り師は創造的な生き方、超人の生き方を目指して進もうとシーンがある。そこに道化師が現れ、超人を目指して進む綱渡り師の邪魔をする。そして、転落して死んでしまった綱渡り師をツァラトゥストラはわざわざ抱えて、自分で丁寧に埋葬するのである。このシーンにはニーチェの中に「失敗してもよい。どんどん実験するのだ。」という気持ちがある。ニーチェは「超人を目指して没落せよ」と言う。自分が途中でダメになっても後輩達や子供達にその思いが伝わればいいと考えているのである。ニーチェは「超人のために死のうとする者を自分は愛する」と言う。超人の生き方すれば、本当の幸福を得ることができ、「ルサンチマン」にとらわれず生きていけると、ニーチェ自身で示したのである。
参考文献
西研(2012)『NHK「100分で名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ』NHK出版.
若森繁男(2010)『ニーチェ入門』河出書房新社.
ニーチェ(2010)『ツァラトゥストラ』丘沢静也訳,光文社.
ニーチェ(1964)『道徳の系譜』木場深定訳,岩波文庫.