令和3年度 空挺同志会沖縄支部主催 義烈空挺隊慰霊祭 その3 | 沖縄 読谷村・摩文仁の丘 義烈空挺隊慰霊 全日本空挺同志会 沖縄支部

沖縄 読谷村・摩文仁の丘 義烈空挺隊慰霊 全日本空挺同志会 沖縄支部

摩文仁の丘に建つ、「義烈空挺隊慰霊塔」読谷村にある「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑をお守りし、毎年慰霊祭を実施し、義烈空挺隊を顕彰し、慰霊・鎮魂して、後世に伝える。

まず、全日本空挺同志会沖縄支部長の祭文の奏上が行われました。

 

沖縄支部長による

祭文奏上

 

                               祭 文

 本日ここに、令和三年度、義烈空挺隊慰霊祭を挙行するにあたり、全日本空挺同志会、沖縄支部を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。

 大東亜戦争が終結して、七十六年の歳月が過ぎ去りました。戦争を経験した方々は殆どが鬼籍となり、戦争を実体験され、その凄惨さを真に知る方は殆どおられなくなりました。

 昭和二十年四月、ここ沖縄が、本土進攻の先駆けとして、米軍の侵攻を受け、陸海軍軍人をはじめ、多くの県民が命を落とし、郷土は荒廃し、更に、終戦後に続く米軍の占領は、二十七年間にも及びました。今、青い空、青い海が広がる、平和な沖縄に、その苦難の歴史を、垣間見ることが出来るのは、米軍基地の存在以外には、殆どありません。

 七十六年前、沖縄戦の終盤、起死回生の特攻作戦、義号作戦が発令され、奥山大尉以下義烈空挺隊と諏訪部大尉の第三独立飛行隊が、米軍の占領する読谷、嘉手納飛行場に突入し、飛行場を大混乱に陥れ、一時的に読谷飛行場を制圧し、その飛行場としての機能を完全に停止させました。

 読谷飛行場で、義烈空挺隊の攻撃を受けた第八十七建設大隊の兵士は、次の様に語っています。「弾雨を犯し、超低空で侵入する日本軍機に対して、高射部隊は、手あたり次第、危険な水平射撃を行い、我々は、ブルドーザーの下に逃げ込み、敵味方双方の銃弾から身を守るのが、精一杯だった。これから百機以上の日本の空挺部隊が突入してくると思い、恐怖におののいた。」

義烈空挺隊の突入により、不意を突かれた米軍の大混乱と恐怖に慄く米軍兵士の様子が伺えます。

 しかし、読谷飛行場に強行着陸できたのは、たった一機で、飛行場を混乱に貶めたのは僅か十名足らずの空挺隊員でした。

少人数で、これだけの成果が挙げられたのは、隊長である奥山大尉の卓越した部隊統率と、空挺隊員としての強い絆、徹底した猛訓練と事前の準備、一人一人の任務達成への、強固な意志、そして、挺進不難の精神によるものと考えます。

 今日、帝国陸軍挺進部隊は消滅しましたが、日本国土と国民を守るという気概と意志は、精鋭無比の第一空挺団に引き継がれ、挺進赴難の精神は、今、空挺精神として、この「義烈」の碑の前に参列する沖縄支部、空挺予備員一人一人に、確りと、受け継がれております。

 沖縄支部は、昭和四十八年に、当時の第一混成団の空挺予備員有志によって、読谷の地に「義烈空挺隊玉砕之地」の慰霊碑を建立し、慰霊・顕彰を目的として、支部を立ち上げました。

そして、発足以来、四十九年間、代々、慰霊と顕彰を行なってまいりました。今後も、先輩方々の、義烈空挺隊への深い思いを受けつぎ、沖縄支部の「義烈空挺隊玉砕之地」の碑と、ここ摩文仁の丘の慰霊塔を守り、義烈空挺隊の末裔として、今後も慰霊・顕彰を続け行くことをお誓い申し上げます。

 義烈空挺隊の御霊よ、安らかにお眠りください。

 最後になりましたが、新型コロナウィルス感染拡大に伴い、参列者の健康、安全を確保するため、会員以外の方々の御参列を控えさせて戴き、更に賛助会員については、ワクチン接種をうけた者に限らせていただき、慰霊祭の規模を、縮小して実施致しましたことを、お詫び申し上げますとともに、令和三年度の慰霊祭を挙行できましたことを心から御礼申し上げ、追悼の言葉といたします。

令和三年六月五日 

全日本空挺同志会 沖縄支部 代表 桃原浩太郎

 

         

祭文奏上する沖縄支部長