私見ですが。

 

凡才が努力したらなれるのは、「秀才」です。

 

「天才」というのは、人が思いつかないことを思いついたりできるからこそなのです。

凡才は最初から人が思いつくことしか頭に浮かばないので、その延長線上は天才に到達しません。

しかし人が理解できることを理解でき、人並みのことを普通にこなせる能力を持っているので、一見平凡な努力でもそれを積み上げていけば秀才に到達できます。

 

一方、「鈍才」は人並みのことすらできません。

なので、一般人以外の経路でそこに到達しようと努力することで、

人と違った才能が開花するわけです。

ゆえに、努力すれば天才になれるのは「鈍才」のほうです。

エジソンはじめ、幼少期には人並み以下だった人たちが後世天才と称されるのには、こうしたわけがあるのです。

 

世間一般には、

 

鈍才~人に言われてもできない。

凡才~人に言われないとできない。

秀才~人に言われなくてもできる。

天才~人が思いつかないこともできる。

 

のように、平面的な見方をされていて、等級として認識されています。

そして、努力さえすれば上の等級に行けるかのようによく言われています。

しかし実際には、鈍才が凡才にはなれません。

鈍才は鈍才のままか、あるいは天才に昇華します。

また、秀才がいくら努力しても天才になることはできません。

ともに優秀ではあるけど、根本から異質の存在だからです。

 

なので実際には、

「鈍才」と「天才」が同じグループ、

「凡才」と「秀才」が同じグループ、

です。

 

これらは発想や類型そのものが違うので、努力や願望で補うことはできません。

凡才が天才になることはないし、鈍才が秀才になることもないのです。

残念ながら、元々の資質が違うものにはなれません。

しかし、天才のほうが秀才よりも上ということはないのです。

 

飛行機を作ったライト兄弟は天才だけど、それをわずか百年ほどの間にジェット機に進化させたのは、無数の秀才や凡才たち。

 

どんな人にもその人の特性があり、それぞれの立場で社会の役に立つことができます。

 

なのでこれらは等級の違いではなく、特性の違いにすぎません。

 

 

 

 

スポーツでは、フォームを真似ることで力の使い方や流れを自分の中にコピーしてそれを自分のものとしていきます。

 

語学で言えば、その言語の発音やイントネーションを真似ることでその中にあるニュアンスや感覚が自分の中にコピーされていくので、これはスポーツのフォーム学習と全く同じことなのです。

 

ところが日本では、それを全くと言っていいほど重視せず文法や翻訳知識ばかりを詰め込んでいます。

これはスポーツで言えば基本のフォームが全くダメなのに、その代わりに運動力学ばかりをガリ勉し続けるようなものです。

 

基本のフォームさえできていないのに運動力学にはやたら詳しい...

こんな選手が試合に出たら、どうでしょう?

 

結果は、明らかですよね。

 

文法だの翻訳なんか、実はどうでもいいのです。

真似して真似しまくっていれば、あとは自動的に身につくようにできているのが語学なのです。

そういう単純な方法論でできるものでなければ、赤ん坊に習得できるはずないのです。

 

 

 

この世の中には、一見誰も気に留めませんがよく考えると

「有ったらおかしいもの」で溢れています。

 

私が何度か取り上げている「愛情」もその一つです。

「親が子に愛情を持つのが当たり前」だと、一般には思われています。

 

しかし、これがまずおかしいのです。

すべての個体には自我があり、自分が一番可愛いし優先されるべきだと基本的には思っています。

ところが進化した動物ほど、我が子のために自分を犠牲にもするなどの行為が目立つようになります。

人間だけでなく、哺乳類全般にそうです。

 

種の保存のためというだけならば、別に愛情を持たなくても昆虫のようにたくさん産んで放置していておいてもよいはずです。

我が子を守るためにライオンに抵抗し殺されたヒョウの動画などが例ですが、母親が殺されたら子供も一人では生きられないので種の保存のために有利とは言えません。

それなのに、どうして進化した動物ほど「自分以外のもの」のために自己犠牲も厭わない「愛情」を持つようになるのでしょう?

 

我が子に大学教育を受けさせるために、イヤな上司に頭を下げてまで辞めずに我慢するのは、どうしてでしょう?

愛情なんてあったら、個体が生き残るにはむしろ邪魔なんです。

 

しかもどうしたわけか、こういう愛情に溢れる行為を私たちは

「美しい」と感じる心まで持っているのです。

これって、「生物の自然発展の結果」とか「生き残るために必要な進化」などで説明がつくのでしょうか?

 

遺伝子工学の研究者などがよく「神の領域」といいます。

あの人たちは、神を信じる宗教信者としての発言なのでしょうか?

いいえそれは、霊的直観で感じたことを言ってるはずです。

 

こうした、この世界に生きるためには全く必要ないはずのものが

この世には溢れています。

「この世にあったらおかしなもの」は、愛情だけではありません。

まだまだたくさんあります。

 

私が以前「生命には設計者が、人生には観察者がいる」と書いたのは、これらは明らかな意図をもって設計されているとしか思えないからです。