本書はそのタイトルから "お堅い" 印象を受けますが、「日本思想史」の「日本」に力点が置かれたテーマと、これまで出版社の宣材やPR誌、書評などに筆者が発表した「小文」が中心であることから、とても読みやすく新たな知見を得ることの多い本でした。なかでも、第1章「その通念に異議を唱える」に収められた「「可愛い女」の起源」には大いに刺激を受けました。

 

日本は女性が、とりわけ政治・経済の分野で活躍できない社会であることは、世界経済フォーラムが毎年発表している ジェンダ-ギャップ指数 が先進国の中では最低、全体でもかなりの低位にある(2023年度は145国中125位)ことからもよく知られています。この問題について、上記の小論は冒頭「現代日本の多くの少女は、十代のあいだに、ある重大な選択をしているらしい」という一文で切り込んでいきます。そして三つの引用をひいたうえで

 

(中略)立場の大きく異なる女性たちが、異口同音に、日本社会に生きる少女たちは、いわば「出来る女」になるか、「愛される女」になるかの二者択一を迫られているのである。多分、事実なのであろう。

 しかし、この二種の女性像は、そもそもどちらかを選択しなければならないものなのだろうか。高い能力や業績と愛されることは、当然に相反するのだろうか。

 そうではあるまい。優秀で有能な人は魅力的ではないか。高い能力と業績の故に好意を寄せられる方が、むしろ自然ではないか。

 では、何故、日本では違うのか。(同書 p.23-p.24)

 

と問題提起します。以降、傍証となる幾つかの引用を重ねて、日本では、女性については「愛されること」と「可愛いこと」とがほぼ同意義であることを確認したうえで、思春期を迎えた多くの少女が、「可愛く」あろうと努めるのも当然なのだろうと、冒頭の一文における「重大な選択」の意味を明らかにします。

 

そうなると、もう一方の「出来る女」像の扱いが気になりますが、それは現在放映中の朝ドラ『虎に翼』の主人公・猪爪寅子が闘い続けた「女の子は、勉強はそこそこで、可愛くて愛嬌があればいい」という通念が蔓延る昭和10年代と現代はさして違いはないようです。筆者も、最優秀の女子生徒が東大を受験しない理由など幾つかの傍証を挙げながら

 

女性についての「可愛さ」理想(それは、男性理想と対をなしている)が蔓延する下での、女性の意識的・無意識的な自己抑制と、男性による意識的・無意識的な方向付けや抑圧があるのではないだろうか(「抜擢したくても適当な女性がいないんですよ」とぼやいているあなた自身が、そのような状況を創り出し、今日も維持しているのではありませんか)。(同書 p.29-p.30)

 

と述べています。残念ながら、そうした「可愛い女」像が日本でそれほどまでに強力である原因についてこの小論では深掘りされていません。ただ、歴史的な説明も可能である、として筆者の別の書籍を紹介しています。

 

 

 

どうやら、ここに所収されている三論文(第五章「夫婦別姓」と「夫婦相和シ」)、第六章「どんな「男」になるべきか ― 江戸と明治の「男性」理想像」、第七章「どんな「女」になれっていうの ― 江戸と明治の「女性」理想像」)にこの問題への筆者の解答があるようです。少なくとも、かなり根深いものであることだけは分かります。

 

ところで、この小論を読んでひとつ思ったことがあります。それは 成瀬あかり は新たな日本の女性像として描かれていたのではないか、ということです。成績優秀で二作目では京大に現役合格する彼女は間違いなく「出来る女」です。そして予測不能で突飛な行動の数々に初めは戸惑う周りの人々もやがて彼女に惹かれていきます。そう、彼女は「愛される」女、「可愛い」女でもあるのです。そんな「成瀬あかり」が本屋大賞を受賞した今年は、ひょっとしたら日本の変わり目なのかもしれません。