今日の午前中、さいたまMOVIXで『陰陽師0』を観ました。夢枕獏さんの小説『陰陽師』シリーズが原作ですが、本作品は小説にはない安倍晴明の若き日々を描いたオリジナルストーリーとなっています。現在放映中の大河ドラマ『光る君へ』に登場する安倍晴明は押しも押されぬ陰陽寮の重鎮となっていますが、山崎賢人さん演じる清明はまだ修行中の「学生(がくしょう)」の身分にすぎません。周りの空気を一切読まない強靭な性格や並外れた呪術の才能が彼を一匹狼的な立場に追い込みますが、そんな彼とは対照的に温和で雅楽に通じる、染谷将太さん演じる源博雅の存在がとても好いバランス感を生んでいます。この二人は、原作の『陰陽師』シリーズ第1作目から続く "バディ" だそうで、本作はその出会いを描く意味もあったのかもしれません。

 

 

陰陽寮とは律令制における行政機関のひとつで、占い・天文・時・暦の編纂を担当していました。現代でいえば中央政府の官庁に当たり、そこで働く陰陽師は国家公務員に相当し、陰陽寮はそうした人材を育成する教育機能も有していました。映画の導入部では陰陽寮で学生たちがさまざまな授業を受けるシーンが続きますが、そうした時代背景を観客に説明する目的もあったのだろうと思います。

 

そのなかで私にとって意外な発見がありました。「呪詛(じゅそ)」や「呪術(じゅじゅつ)」で目にする「呪」を「しゅ」と呼んでいたことです。そしてその「呪」を「暗示」もしくは「催眠術」であると陰陽頭は説明していました。つまり、「のろい」や「まじない」ではなく「言葉や仕草によって意識を誘導する」という意味があるというのです。

 

もうひとつ意外だったのは、この映画で安倍晴明は極めて冷静で理知的な若者として描かれていたことです。天文や暦、さらには漢方などを扱う陰陽寮は、考えてみれば当時の最先端科学を研究する部署だったといえます。したがって、いわゆる「理系」の才に優れた若者が全国から集まってきたとしても不思議はありません。その学生のひとりでもあり並外れた呪術力を持つ清明だからこそ、自身が「意識を誘導する」という意味での「呪」の力に搦めとられないよう常に自らの意識をコントロールしていたと思うと腹落ちする感じがしました。

 

フェイクも紛れる玉石混交の情報が氾濫する現代においても、安倍晴明が戦ったものとは違うにしても、多くの「呪」に囲まれていることに変わりありません。とりわけ、漠然とした不安を抱いているときに「もっともらしい話」を疑いもなく信じてしまうのは「呪」に搦めとられているということなのかもしれません。

 

清明が博雅に「事実」と「真実」との違いを話すくだりがあります。どこかで聞いた覚えがあると思ったら、落下の解剖学 でも同じテーマを扱っていました。さらに、「今見ていることは現実なのか」という問いは 映画 Matrix を想起させます。ただ、コンピュータに管理された Matrix の無機質な世界とは打って変わって、雅やかな平安絵巻の中で繰り広げられる呪術戦はとても壮麗で迫力に富んだものでした。

 

おそらく映画でもシリーズ化されるような気がするので、これを機会に夢枕獏さんの『陰陽師』シリーズを読んでみようと思います。