今日の午前中、映画『落下の解剖学』を観ました。原題は "anatomie d'une chute"。フランス人のジュスティーヌ・トリエ(Justine Triet)が監督・脚本を手掛けた2023年カンヌ国際映画祭パルムドールに輝いた作品です。

 

 

ベストセラー作家のサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)は、夫と視覚障害のある11歳の息子(ミロ・マシャド・グラネール)と人里離れた雪山の山荘で過ごしていたが、あるとき息子の悲鳴を聞く。血を流して倒れる夫と取り乱す息子を発見したサンドラは救助を要請するが、夫は死亡。ところが唯一現場にいたことや、前日に夫とけんかをしていたことなどから、サンドラは夫殺害の容疑で法廷に立たされることとなり、証人として息子が召喚される。

 

さいたま新都心のMOVIX公式ホームページに記載された映画概要から推察されるように、152分という上映時間の大半は法廷でのやり取りに費やされます。審理が進むにつれて新たな証言や証拠によって事件の詳細は徐々に明らかになっていきますが、どれも黒白を決定づけるものにはなり得ません。

 

映画館で購入したパンフレットに載っていた精神科医の斎藤環さんの「トラウマとコンテキスト」というレビューのなかにこんな文章があります。

 

真実は語り手の数だけ存在するということ。いわゆる "Rashomon style”(「藪の中」)である。独仏英の多言語が飛び交う本作もまた、そうした系譜上の作品なのだろうか。おそらく、そうではない。

 

"Rashomon" が黒澤明監督の『羅生門』を指すことは言うまでもありませんが、真相は最後まで「藪の中」であったとしても、この映画では最終的に判決が下されます。もちろんそれが"本当に"正しいかどうかは決定的な証拠がない以上誰にも分かりません。しかし、少なくとも私にとっては、その判決が腑に落ちるものに思えました。それは、上記の斎藤さんのレビューの末尾にある「決意をもって「客観的な事実」より「主観的な真実」を選び取った」ことに起因するものなのでしょう。

 

玉石混交の情報が氾濫する現代において確証を持って何かを決断することはけして容易いことではありません。「解剖」という分析技術には限界があって、何が真実であるかの判断は当事者の意思に委ねられるからです。この映画の秀逸さは、法廷ミステリーという形を取りながら、不確実な "真実" を巡る当事者たちの「心のひだ」を深く慎重に腑分けしていくプロセスの素晴らしさにあったように思います。