昨日、さいたま新都心のMOVIXで『風よ、あらしよ〔劇場版〕』を観ました。三連休明けで朝一番の上映だったためか、観客は私を入れて二人しかいないという寂しい、しかし、スクリーンをほぼ独占するという意味では ”贅沢な” 映画鑑賞でした。

 

 

今年のNHK大河ドラマのヒロインを務める吉高由里子さん主演の映画にしては客入りが少なすぎる感が否めませんが、主人公が伊藤野枝(1895-1923)と聞いてピンとくる人もあまりいないのかもしれません。高校の日本史の教科書には女性解放運動家としての彼女の名前は登場していますが、本文ではなく注記もしくはコラムの中です。したがって、私自身もそれ以上の知識を持たずにこの映画を観ました。

 

 

映画の冒頭、「家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫が死んだあとは子に従う」という「三従の教え」が映し出されます。こうした男尊女卑の風習が強い明治時代の福岡に生まれながらも、ノヱ(野枝の戸籍上の名前)は幼い頃からその理不尽さに気付き、ことあるごとに反発、衝突します。そうした物怖じしない真っすぐな性格が、28歳という短すぎる彼女の生涯を波瀾万丈なものにしていきます。原作である村山由佳さんの小説『風よ、あらしよ』で描かれる主要なエピソードがほぼ忠実に再現されるこの映画では、自由奔放ながらも一本芯の通った伊藤野枝を吉高由里子さんが好演していました。

 

野枝のパートナーであった、永山瑛太さん演じる大杉栄は「無政府主義者」とか「アナキスト」というレッテルを貼られることが多いですが、上掲コラムにある「憲兵により大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥が殺害された」いわゆる甘粕事件も、関東大震災後の大混乱に乗じて国家転覆を図る不穏な輩という一方的な偏見が背景にあります。しかしながら、映画の中で、野枝が自分の生まれ育った村で見聞した「組合」について語る場面がありましたが、「権力も、支配も、命令もない」相互扶助の在り方こそが彼らの求める「無政府」の意味だったように思います。それは斎藤幸平さんが 人新生の資本論 のなかで、行き詰まる資本主義に代わり得るものの一例として挙げた、スペイン・バルセロナ市での「協同組合による参加型社会」への取り組みに通じるものがあるように感じました。

 

この映画を通して、伊藤野枝という、それまで名前しか知らなかった一人の女性の先覚的な生き方を知ることで、またひとつ歴史の扉が少しだけ開いた気がしました。