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続・日々コラム・・・

Shen Teh n Shui Ta = hen na TeTSuShi・・・

泥棒というのは、お話には良く出てくるとても一般的なものですけれども、なかなか本物に会うことはありません。


以前、お通夜の席で、見知らぬ男が紛れこんでいて、それがどうやら常連の葬式泥棒さんだったってことがありました。

滅多に会わない親戚や、どこの誰だかわからない関係者が同じ黒服で集まり、しかも大金で現金が用意されているというのですから、堂々とやられたらこれはもうたまりません。


そして、とある公共施設で本日、見事に泥棒らしき人に遭遇してしまいました。


私、どう見てもお金を持っていそうにないのですけれども、20年使っているジュラルミンのアタッシュケースに騙されたのか、トイレの隙に部屋に侵入されてしまいました。


ま、事なきを得ましたが、というか本当に窃盗目的だったのかどうかわかりませんが、不気味なものです。


別件で、裁判の傍聴をしたときに、被告人は窃盗の常習者だったのですけれども、その手口や状況を聞くと、どうも現実的でないような感じがしました。


そんなシチュエーションあるのか、というような状況で、なぜか癖のように手が出るみたいでした。


ま、その人は、正真正銘の泥棒だったわけで、お目にかかれて光栄でした。


前回は震災前、久しぶりに参加したセミナーで、太宰久夫先生が紹介されていた”RSC”に感激しました。


RSCといっても、英国の”ロイヤル” シェイクスピア・カンパニーではなくて、アメリカの3人組がやっているパrpディ集団、リデュース(はしょった)シェイクスピア・カンパニーなんだそうで、これが結構面白いんです。


日本ではなかなかパロディが認知されないのですけれども、相当な実力と理解が無いと、このパロディってのはできません。


そこに芸術的存在意義もあるのでしょうね。





ドストエフスキーの『白痴』を深めて参りました。


日露混成で様々な視点からの白痴を伺って、とても有意義な時間でした。


読書は、ある意味で孤独な作業でもあります。

なので、集団作業で作品理解するのも面白いものです。

作品への思いの強い人達の意見や感想に囲まれて、それを芸術的に立体化したものを体験して、半日でかなりの『にわか白痴通』になれる日でした。


ドストエフスキーのロシアでも文学的立場、そんなものもちょっと感じることができました。


『白痴』は、「肯定的に美しい人を描きたかった」という作品だそうで、この登場人物たちには本当に心臓を掴まれる思いです。

黒沢明監督も惚れこんで渾身の映画化した作品です。


こんな人間描写が前世代の小説になされているのに、最近の映画やTVや舞台のストーリーの登場人物の安っぽいことったらありゃしません。


それにしても、ロシアって国はなにやらせてもどうしようもないのですけれども、こと芸術に関しては超先進国出だと思いました。

わたしたち、今のままではとてもじゃないけど、敵いません。娯楽もいいけど、本物を磨かないと・・・。


ハラショー!


SNS、ソーシャルネットワークサービスが普及しています。

国産だとmixi、外来だとfacebookなどなど、パーソナルな情報と友人とを共有しておくことができます。


考えてみれば、ちょっと親しいくらいの友人でも、数年会っていないことはザラ。

親戚や家族だって、盆暮冠婚葬祭くらいしか会わないのが現実。


それでも、普段から連絡を取り合っているような状態になれるのも特徴です。


それでも、これまで消極的利用をしてきたのですけれども、facebookでは積極的に、国の内外を問わす「友達」を広げています。

もともと、外国の友人との連絡に使っていましたので、練習を兼ねて、頑張って英語で書いてますけど、国内の友人との連絡にもなってまし。


このSNS、たしかに面倒なことも多くて、否定的な意見もあるのですけれども、「友達」という点でよいことがあります。

それは、普段連絡をとることが少なくなった人や、あまり親しくもなく面識があるという程度の人とでも、一応塚がっていられること。何かあったときには連絡することができるわけですから。


その薄く広くの逆が、僕は結婚式だと思うのです。

あの、招待者選びでの『友達の選定』は、残酷です。

するほうも、されるほうも・・・。


同じクラスの友達、仲良くしていたつもりが、あっちは招待、そっちは招待しない、そこで線引きがされるのです。

残念なことです。

そこで、失われた友人関係もあるはずです。


SNSなら、クラスまるごといつまでも好きなだけつながっていられますから。

111111111と1が並ぶ日、これは雨の象形だったのか、雨降って寒い日でした。


雨が似合う作品、泉鏡花の「天守物語」、白井晃さん演出で新国立にお邪魔してきました。

今年は、実力ある「天守物語」の上演が続きます。


原作が書かれたころ、上演困難と言われた本作品も、いろいろと発達した現在では、ちょっと事情が良くなったのでしょう。


原作の世界をしっかりと表現していたのはさすがナショナルシアター。

しかし、やはり保守的な感じは拭えません。


公共事業と同じで、国でやるべきものは、正統派を守ることか、失敗できるチャレンジなのか、そこらは疑問です。


民間にできることは民間に、でいいとも思えませんが・・。

某所、デイサービス(いわゆる老人ホーム)を訪問させていただきました。

厳密に言うと、訪問に同行させていただきました。


慰問しようにも一人でできる芸がないもので・・・。

現場で、ご一緒した大先輩先生から、南京玉すだれをご教授いただきました。


これ、だれでもなんとなく知っている伝統芸能なのですけれども、率直な感想は、おもしろい。

とっても興味深い構造で、いろいろと楽しめる道具です。


あ、さて、あさて、あさてさて の定型パターンでパフォーマンスされるのが有名で主流なのですけれども、これって、その様式が逆に普及を妨げているような気もしました。


つまりそれだけ、この道具で表現できるバリエーションは広くて、もっともっと面白いことができそうです。


ちょっと工夫してみたくなりました。

どんなに強く望んだとしても、希望は叶うとはかぎらないわけです。


でも、『自分はこうなりたい、これがやりたい』という思いを、まずは強く持つことが必要だと思います。


そのうえで、諦めないこと、くじけないこと、最後の最後まで、しつこくやること。なにしろ、自分が降りたら、だれも引き上げてくれるわけはないのですから。


僕がまだ諦めていない夢があります。

あること自体、幸せなことです。


しかし、めちゃくちゃなことです。

太平洋を自分の血で真っ赤に染めるくらい無謀なことかもしれません。


計画しても、プラン通りに実行できるはずもなく、自分の時間や体力にも限界があります。

人を巻き込んでしまうかもしれません。

他の、現実のことに追われて、何もできないかもしれません。


それでも、僕ら三流は、自分からは引かない事だと思います。


自分の夢を、だれも相手にしてくれなくなったとき、現実を突き付けられるわけで、自分は希望のドアが開くまで、ドアの前から離れないつもりです。


馬鹿は馬鹿なりに、奇跡と幸運を信じて、愚か者を極めています。


面影橋っていう素敵なネーミングの橋があります。

神田川にかかる、江戸時代からの歴史も逸話もいっぱいある、由緒ある場所なんです。

都電の駅になっていなければ、実在する橋なのかどうか、知名度もほとんどなかったかも知れません。

僕ら世代には、NSPのフォークソングですかね。


♪ルールも友達も約束もみんな捨てて、君をこのまま抱いていたい面影橋で~


なのですけれども、本当にそんなことしたらかなり浮いてしまうのが実際の面影橋。

さらに、かぐや姫の神田川の世界もこの辺りなのですけれども、いまや周囲は完全ビル武装。

唯一のノスタルジーは、都電が引き受けているって感じです。

面影橋は、色気もなんにもないただの橋、完全に名前負けしています。

そんなそっけない橋に、感傷的になってしまうのは、フォークソングの中の純粋な若者の生活への郷愁なんでしょうか。

やがて、無謀なことをすることも、がむしゃらに生きることも、貧しい暮らしに身を置くことも、許されなくなってしまった自分たちは、歌の中に自分の面影をみつけてしまうのでしょう。

♪心のままに生きたとしても、幸せとは限らない

70年代フォーク。身に沁みます。



続・日々コラム・・・

好き嫌い、わかるわからない、近い遠い・・・


僕にとって、自分との距離がもっともわからない作家が宮沢賢治です。


苦手で、いつも触れようとすると壁がある気がするのに、なぜか避けようと思わない不思議な魅力。


賢治ファンは、周囲にたくさんいらっしゃいます。

なので、間違いなくそれだけの人を引き付けてしまう魅力ある作品だらけなんですね。


仕事で、花巻には何度も行く機会があって、賢治の愛した空気もたくさん味わいました。

そこで感じたことは、「たぶん、違う」ということ。

なにが違うのかというと、それがわからないんです。


ごめんなさい。


わからないまま、その距離感を保ちながら、これからちょっと賢治を探ってみたいと思っています。

三好十郎とテネシー・ウィリアムズ、ほぼ同世代の日米の劇作家です。

それぞれの「炎の人」(銀河劇場)と「ガラスの動物園」(SPAC)が上演されています。


新旧、二つの潮流があると思いました。


作家の問題ではなくて、プロデューサー・芸術監督の仕事として、同じ題材、同じ”ような”産業が、娯楽興業と芸術文化のどちらにでもとらえられるものなのですね。


ここまで商業化された「炎の人」。

有名俳優を集めても、三好十郎の言葉も世界もほとんど響かなかった残念さ、おそらく、古い古いといわれても、本家の民藝あたりならこの世界感はしっかりと伝わるのだろうと思いました。


一方で、舞台美術と照明だけでも新しさと美の感動が伝わる「ガラスの動物園」

翻訳された日本語の韻律と、日本の伝統をもった声で綴るアメリカの戯曲。


どちらもダブルコール、トリプルコール。

しかし、前者は「有名人、もう一回出ておいで~」的な感じ、後者は「褒めどころが尽きなくて、その世界にまだいたい」感じ、と意地悪く思ってしまいました。


どちらも、現実離れした贅沢な時間にちがいはないのですけれども・・・。