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続・日々コラム・・・

Shen Teh n Shui Ta = hen na TeTSuShi・・・

サンシャイン60で食事をしているとき、急に停電しました。

停電すると、照明はもちろん、音も消えてとても静かになります。

意識していなかったのですけれども、BGMだけでなくモーター音や電子音、結構うるさかったのですね。

停電しても、おおきなビルですから特に不安になることもなく、暗めの非常灯で復旧をまちました。

店員さんの「レジが動かないので、お帰り頂けません(笑)」にも癒されました。

そういえば、今年の前半は停電する・しないで大騒ぎしていました。

表参道はやはり美しい電飾でした。

ことしは、東京のクリスマスは異質な風景になるだろうと思っていたのですけれども、

もう、節電ってしてないのだなぁと、街のイルミネーションを見て思いました。

忘れるのが早いのか、立ち直るのが早いのか・・・。

『芝浜繁盛記』 皆様のあたたかいご協力と応援のおかげで、好評・盛況でした。


会場の条件的な制約、少ない稽古期間、キャスト変更、台本の変更、いろいろありましたが、なんとか幕あきました。


ビックリしたのは初日。

今回は落語の名作『芝浜』をベースにした作品ということで、寄席のムードを演出しました。


つまり、二番太鼓、寄席囃子にのって、冒頭ヘッポコ落語家役の夏さんが高座に登場、という導入だったのですけれも、登場するだけで暖かい(期待の?)拍手が起こりました。


客席の照明も落とさず、極めて寄席っぽくしていたこともありましたが、これは演劇的にはまったないこと。

夏さんも、登場しただけで拍手もらうのは初めてだったんじゃないかと思います。


日本には、もの凄い文化があって、落語はそのひとつ。


あそこで拍手。笑う準備。


だれもなにも打ち合わせなくても、お客さんに沁みついているんだと思いました。

コーナー監修しているFM番組が始まっています。


FM世田谷 83.4MHz


12月3日~毎週土曜日 

17:00~18:00

~カオルのMusicTrainCafe~

パーソナリティ:脇本カオル

FMせたがや83.4MHz


の中、

~しあわせ・かんたん・ひなレシピっ!~ナビゲーター・声の出演:いずみひな

という約5分の、おかしなレシピ紹介パロディをやっています。

17:25分ごろ~ (17:30またぎの時間)です。


聴いてやってください。


東京・世田谷を中心に、FMは受信可能なほか、全国の地域できけるところもあります。

また、パソコン、スマートフォン(iPhone,アンドロイド)でも、生、リアルタイムで聴取可能です。


よ~く聞かないと、笑い損ねてしまいますよ。


今後、バックナンバーが聞けるようなブログとかも整備していきたいと思います。


FMせたがや

http://www.fmsetagaya.co.jp/



蕎麦屋さんに寄りました。


駅の立ち食いでなない、蕎麦屋さんです。


長野で食べると、蕎麦の量に圧倒されるのですけれども、逆説的にいえば東京で食べる蕎麦の量が少ないということになります。


見事に、もりそばの底が透けていました。

すぐ、食べ終わってしまいました。


もちろん、昼食時のように、三食のうちの一食とすることもあるのですけれども、基本的に東京の蕎麦屋さんというのは、酒飲み屋さんなわけです。


蕎麦、は締めの一品。


おつまみを食べながら焼酎を飲んで、余ったお腹のスペースに上品に入る蕎麦。


風味が大事で、量が多いと他のものが食べれなくなってしまいます。


なので、これを単品で注文すると、値段とのギャップを感じてしまいます。


間食にするには贅沢なもんです。




ふとみた広告で、『42歳、子持ちに見えない』というものがありました。


女性向けの、美容の広告なのでしょうけれども、42歳の子持ちに見えないことが良いことだ、という価値観があるみたいです。


つまり、若ければよくて、独身に見えればよいということかと。


それでも、30でも40でも50でも、その年齢にしない良さがあるはずですよね。


僕も、痛々しいほどの若作りをしていますけれども、さてどうしたものか。


ひとそれぞれ、いちばんいいと思っている年齢ってあるのではないかと思います。


例えば僕は、20代はとにかく30代40代に憧れたし、背伸びして生きてました。最近逆ですけど・・。


「子持ちの42歳の女性に見える」ことに憧れる人だって多いだろうと思います。

それをネガティブにとらえるのはどうかと思いました。


子持ちの42歳はダメで、独身の30歳が良いのなら、老いていくことはどんどん理想から遠のいていくことになります。


そうばかりじゃないと思うんですけど。


洞察力、というと大したことのように思えますけれども、つまりこれも想像力なわけです。


相手の気持ちを考えてみること。


そうすれば、悪気があるのかないのか、何が意図なのか、わかってきます。


想像力が、年齢とともに衰えていってしまいます。

なので、つまらない争いになってしまいます。

誤解も生じてしまいます。


みんなが気を使って、気を使われている世の中って、堅苦しいようで、とても人情味のあることだと思います。


相手の立場で物事を考えると、とてもよい解決方法も導けたりします。


シンプルなことです。


その練習を毎日やっている気がします。

私が中学生のとき、ちょっと昔のことですけれども、新聞に投稿したら掲載してもらったことがあります。


物書き業の第一歩でしょうか。道を踏み外す大元だったのかもしれませんけど。


その内容は、ニュースで、とある教師が仲間と共同購入した宝くじが当たって、分配について訴訟になったということが紹介されていて、それに対して、子どもとしては「友情がそんなことで壊されるのはわからん」というような、クサイ内容だったとおもいます。


大人にとって、お金は重要な問題です。

一生、そのために費やして、追われて追いかけて暮らさなければならないと事は、今も昔もよくわかります。

不自由なく養ってもらっている子どもがケチを付けることではなかったのも、重々承知。


遺産相続でもめる兄弟の話だって、本当によく理解できます。


それが現代社会なのだと思います。


いま、そんなテーマを扱って、牧歌的な時代のお話を作っています。

落語の「芝浜」を題材にした、江戸の人情話を、芝浜の地元・港区で演出させてもらっています。


「大金より酒飲み交わす友」


そんな幻想は、落語の世界だけなのかとおもいつつ、古にはそんな時代がこの日本にもあったのかと、そう思うと豊かさってのはなんなんだろうと思います。


お腹が空いているときに、目の前に料理があったら食べたくなります。


しかし、その料理は他の人の分だったらどうかというと、たぶん我慢するか、最低、躊躇います。


動物として機能がまともなら、空腹で食物を目にしたら当たり前に食べますけど、大人の人間はこの場合食べないのがまともとされます。


あとから加わった社会のルールが優先してしまうわけです。


でも、人間も動物。


基本にあるのは、お腹が減ったら食べる。生きるために必要なものは手に入れようとしても、おかしkはありません。


他の人のお皿の料理をわからないようにこっそり食べることもあるでしょうけれど、それもルール違反とされます。

でも、たとえば、その料理が食べ残しだったり、捨てられてしまうものだったりしたらどうなんでしょう。


飢えた空腹の人がいる。

捨てられていく食物が目の前にある。


それでもルール違反になってしまうのが、まともな人の社会なんでしょうか。

人間らしい欲求にフタをして目をふせて、お行儀良くしているのがまともな人間・・・まあ、そうなんでしょう。


法治国家、現代社会の秩序。良い社会と、人間がひとらしく生きるということの隙間があるように思えてなりません。


非凡と平凡ってユニット名にしようかと思うようなペアリングで、急きょ二人芝居をしてきました。


もちろん、私は「平凡」の方です。


非凡なのは、写真に写っている女優さんですけれども、まさに、「ぶっつけ本番」


しかし、なんとも生きた反応を織りなしていくじゃないですか、非凡な方は・・。


私には、不似合いなコメディでしたけれども、久しぶりに上演中に楽しくなる時間でした。


お疲れ様、自分。


続・日々コラム・・・

とある戯曲のセリフに思ったことですが、人の気持ちの大きさに限度があるなら、回数や人数の過多によって、気持の濃度はかわるものでしょう。


でもたぶん、こういう類のものは、使い減りもしないし、むしろ増長していくのではないかと思います。


これは、愛情に限ったことではありません。


つまり、飽きてしまうことはあるにしても、愛情も憎しみも希釈されるものではありません。


なので、気持ちの出し惜しみしていいことは、そんなにないと思います。


ぶちまければいいんです。


ちなみに、悩んだら他人に話すことだと思います。話せる人がいなければ、誰でもいいんです。


それで気が済むんですから、誰も、何事も。