柳澤桂子さんが般若心経を科学的現代訳で解釈した本である。ベストセラーにもなっている。周りの世界を我々は二元的に見ているとし、一元的な世界こそが宇宙の本当の姿であるとしている。つまり、我々は、自己と他者、自分と対象物という見方をするところに執着が生まれ、欲の原因になるというのである。
柳澤さんは科学者の目からこの一元的世界を解釈し『私たちは原子からできています。原子は動き回っている為に、この物質の世界が成り立っているのです。宇宙を原子のレベルで見てみましょう。私のいるところは少し原子の密度が高いかも知れません。あなたのいるところも高いでしょう。戸棚のところも原子が密に存在するでしょう。これが宇宙を一元的に見たときの景色です。あなたも私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません」とこの世界を説明している。
僕も世界は一元的に存在すると考えている。すべてのものはつながっており、『それがそのように存在する』という非常にわかりにくい言葉でしか表現できないが、確かに世界が『ある』のである。そしてその世界を『科学』という色眼鏡で見るとこのように説明できるのだと理解できた。
しかし、柳澤さんは「科学の進歩のおかげで、物事の本質をお釈迦様より少しはよく教え込まれています」と述べている。しかし僕はそうは思わない。『世界』を説明する時、『科学』という色眼鏡はあらゆる物事、現象、事象を説明できてきた。「世界は科学的にすべて説明ができる」と。しかし、そこにある『世界』と科学で説明できる「世界」には埋まらない溝があることがわかってきた。科学では説明できないことが出てきたのである。人間の心の変化などは脳内のホルモン分泌の変化だけで説明できるだろうか?僕はできないと思う。そこに科学の力では埋まらない『世界』とのギャップがあるのである。
お釈迦様はその『世界』を『世界』そのままとして、感じ悟られたのではないだろうか?それこそが『宗教』と『科学』の決定的な違いであるように考える。この問題はまだ自分自身、解決できない。今後も継続して考えていこうと思う。