昨日まで一緒に実習をしていた子は鹿児島出身の子であった。実習の反省会で彼は言っていた。「自分は大学卒業したら、実家の鹿児島に帰ろうと思います。やはり自分が生まれ育ってきたところの『言葉』って重要だと思うんです。人とある程度まで親しくなったら、やっぱり方言でコミュニケーションを取った方が自分の本心を投げかけている感じがするんです。今この施設では『岡山弁』が飛び交っています。僕が『鹿児島弁』で接しても相手に取って違和感があるし、無理に『岡山弁』で接しても自分の上っ面でしゃべっているような感覚になっていい影響を互いに及ぼさないんじゃないかって」。
僕も大学の時、同じことを感じていた。静岡の大学に進学したのだが、周りは皆『標準語』をしゃべっていた。子どもの頃からバリバリの『岡山弁』でしゃべってきて、いきなり『標準語』で喋るということは僕にとってはものすごく困難なことだった。『標準語』で喋りたくても岡山訛りの標準語になってしまい、とても恥ずかしかった。とても無口になった時期だった。『標準語』に対しても「気持ちの伴わない薄っぺらい言葉」としか捉えていなかった。
大学以降、岡山を離れて生活することが多くなり、しだいに『標準語』にも慣れてきた。そして自分でも喋れるようになってきた。そこには「気持ちの伴わない薄っぺらい言葉」ではなく、しっかりと「自分の言葉として定着した言葉」としてあった。
昨日、大学生の彼の話を聞いて、僕の中で『方言』に対する整理がついた。『方言』って一種の外国語なんだ。僕は『岡山弁』と『標準語』を喋ることができる。どちらも『自分の気持ちをのせて』喋ることができる。でも『標準語』を修得する前は、その言葉で自分の気持ちはのらず、上っ面の言葉であった。
僕にとって今の『上っ面の言葉』はスペイン語である。この言語を『気持ちをのせて喋る』ことができるようになれば、さらに世界が広がり世界中3億5千万人に達すると言われるスペイン語を話す人たちと『気持ちののった』言葉のやりとりができるようになる。その可能性にワクワクする。