先述した家の事で悩んでいた頃、中学2年生に上がる
タイミングでクラス替えがあった。

同じクラスで仲良くなった子は自宅から5.5キロある学校への
通学途中に家がある子で理由は覚えていないが何か
きっかけがあり、とても仲良くなった。

彼女は美人で背も高くクセ毛で化粧もしていないのに
顔立ちがはっきりしていたため生徒からも先生からも
ずっと不良扱いをされていたが、芯のある強い子だったし
文武両道で天は二物を与えるんだなーと関心するぐらいだった。


私も違う小学校から転校し、うわべの友達を増やすのは
苦手だった為あまり多くの友人はいなかった。
黙々と勉強し部活をこなして帰るだけなのだが、
家庭環境が劣悪な為どうしても家に帰る気が進まない。

そのうち、その子の家に度々学校帰りに寄るようになり
その子の親にも親のように気にかけてもらっていたように思う。
休日も茶畑の手伝いに呼ばれ代わりに御飯をご馳走になったり
その子の友人ともウマが合い漸く自分が心安らげる場所や
笑いあえる仲間が少しづつできていった。

夜も家族が寝静まってから私は離れの一番奥にある自分の
部屋の窓から抜け出し予め約束していた時間に友人の部屋の
窓ガラスをノックし朝方まで音楽を聴きながら沢山の話をして
夜が明ける前にまた寝床に戻っていった。


自宅では居間に居たくないので自分の部屋で毎日ラジオを聞き
テレビの歌謡曲よりも洋楽ばかり聞くようになっていたため
学校でも世間話にはついてけなかったけれど、友人とは趣味も
合うしそれで良かった。

友人の部屋では彼女の兄に影響を受けたという曲がいつも
流れていた。私は初めて聞いたときその音楽に衝撃を受けて
それからヘビーメタルと言うジャンルをよく聴く
ようになった。

友人にカセットテープをダビングしてもらい毎日登下校の時も
家でもイヤフォンをしながらテープが擦り切れるほど聞いた。

今もその頃のまま当時のジャパメタ全般からジャズや
洋楽など幅広いジャンルを聞いている。
昔から酷く落ち込んだときは自分の気に入った曲を聴くと
段々と元気がみなぎってくる。

ここ最近音楽すら聴く気持ちにならなかったが、久しぶりに
再生リストで44MAGNUMを見つけ通勤時に昔のアルバムを
聞くようになった。


その中でも自分が一番辛かった時に聞いていた曲はどれも
とても懐かしく感じる。今も再生リストに全て入っている。
音楽は不思議なもので、その頃を思い出すが決してその時の
辛い気持ちそのものが蘇るわけではない。

どちらかというと「この曲に心救われた」という思いが蘇る。

当時、在籍事務所の意向で奇抜なファッションでデビューした
44MAGNUMは、その後のバンドシーンに大きな影響を与えた。
外見や演奏で拒絶する人もいるが当時のジャパメタの歌詞は
まさに演歌。昔の曲は歌詞が分かりやすく今も一緒に歌える。

当時この状況で追い込まれていた私と歌詞がダブり
毎日聴きながら、親の抑圧に屈せず自分は「私」として生きたい。
その思いを貫きたい、と強く思うようになったのです。

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Last train

俺はいつから行くあてもなく
この汽車乗っているんだろう
残り少ない金を握り締め
見慣れた街とはオサラバさ

大人たちの五月蝿い声に聞き飽きて
飛び乗ったLast train

人に流されて生きていくことが
この俺見失いそうで嫌になる
今までの俺は心の何処かで
いろんな奴らに頼ってきた

大人たちの五月蝿い声に聞き飽きて
飛び乗ったLast train

チャンスがあればいつでも1人
走るつもりさ成功のために
他人を傷つけ 俺も傷つくはず

Last train running for my life 
(No regrets in my life. Don't anybody stop me) 
Last train running for my life 
(No regrets in my life. Precious time Gotta go!!) 
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作詞を手がけたボーカルの梅原“PAUL”達也さんは
若年性パーキンソン病と今も闘われています。
子供の頃、心救われた一人として応援し続けたいです。


音楽は私の人生を豊かにしてくれたのかもしれない。


追伸
愛情は親以外から、普通に育つ子よりも十分すぎるほど
沢山の人にもらった事を今は改めて実感しています。
贅沢な話だよね。それは返さなくちゃね。

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注)JASRACと利用許諾契約を締結のUGCサービスリスト
http://www.jasrac.or.jp/info/network/ugc.html
*上記記載許可により、本ブログへ歌詞を掲載しております。
先日、少し心のうちを書いた記事をあげましたが
心配?してくれていた知人と話をしていました。

今の私は頑張りたいと思っていても、その「やる気」
そのものが全くない状態です。
とりあえず仕事をこなして食事を取って寝る事。
今はそれが精一杯の状態です。
やる気のない体を奮い立たせ必要以上に
頑張らないと動いてくれないので余計疲れますw

色々なものに好奇心が湧き創作意欲が出て仕方ない
デフォルトの私は今どこにもいません。

心の疲れが取れれば多分またそんなこともしたくなる
はずなのですが、今は一切の事に手がつけられません。
唯一できることといえば掃除。とにかく捨ててスッキリ
する事と、少しづつ音楽を聴けるようになってきているので
僅かですがましにはなってきているような気がします。


それでタイトルの話に戻るのですが、自分の今までの
動作や心情を遡って見ると一番信頼できるはずの親に
生まれた事を繰返し全否定されたのはもう四半世紀以上前。

時間もたち距離も置いて(ほとんど絶縁状態ですが)
かなりの時間がたっているのに今も自分が動く原動力の
要因になってしまっていること。

「私が生きている」否定を肯定に変えるために生き続け
ただがむしゃらに働き前に進み続けました。
立ち止まっていたら本当に生きる価値がないのだと。

自分自身も頭で理解しているはずなのに、なぜか
この呪縛から抜け出せない。自分は生きていても良いの
だろうかと自問自答し続けてしまう。


そんな話をしていると知人はタイトルの事を言うのです。
その通りだと思います。

元々答えのない事に否定的な答えを植えつけることで
無意識にそれに抵抗し自分にとって安心できる答えを
探すことで不安をなくそうとしているのかもしれません。

誰かの役に立ちたい。認められたい。何かを残したい。
これも全部価値を見出したいという気持ちからなのかも。
もしくは、その様な思考から抜け出したくてしてきた事が
逆にクセ付けされてしまっているだけなのかも・・。

そうなのだとしたらもう済んだ話なので、わざわざ母に
会う事も、確認もする必要はないのかも・・
なんて少しづつ思うようになり、これは1つ解決。

私達はただ縁があって今この世に生まれ、ここで生きて
いるだけのこと。
無駄とか無意味という言葉ではなく生きている理由も
意味も本当に存在しないのだと思います。

答えのない事を探しても考えても答えなんて出てこない。
だから考えてもしょうがないww

分かっているんだけどなぁ・・ww
思考から抜けられないのは分かっていないのだと思うので
もう少し掘り下げてみたいと思います。


楽しく生きることってなんでしょう。

多分、心からやりたいことをやっている状態のとき。
辛くても苦を感じないと思います。
何か義務的になると辛くなるのかもしれませんね。


ただ今の世の中楽しい=楽をする事と考えている人が多すぎる。
周りの足を引っ張って人が努力してできたものの手柄を取って
表面上だけの軽いお付き合いができる人の気が知れません。

申し訳ないが、こんな人と接する時間は無駄だと思っています。
(世の中の仕組み上、接しなければいけませんが)
無駄なことなんてないという場合は反面教師としてありがたく
見させていただいていると思うしかないのかも。

できることなら楽したいチームの人は真剣に生きている人に
ちゃちゃ入れんといて欲しい。楽な人同士で群れてて欲しいです。
迷惑だから。

私はこういうヤツですww


生きることに価値など必要がなくても私は真剣に生きたい。
そうやって生きることには変わりないと思う。
だって、「今」はもう二度と来ないのだから。
今年もバレンタインの季節がやってきました。
日本のチョコレート年間消費量は約4500億円規模。

年々健康志向やビジュアル、ブランド化などにより
バレンタインは女性が男性に贈るものではなく(笑)
女性が自分で食べたいチョコを捜し求める機会と
なっています。

催事だけではなくコンビニでもこの時期は商品が
とても豊富になりますね。
毎年催事は大混雑ですが世界中のチョコレートが集まり
近年はチョコソフト、チョコレートドリンク、ワインバー
など催事でしか食べれないものを求めて男性の割合も
増えています。

また、タブレットチョコのブームが来ていてコーヒーの
ようにカカオの産地別のタブレットも多くあるので
食べ比べなんてこともできるようになりましたね。
チョコレートの進化?盛り上がりに驚きます。


私の会社ではお中元やお歳暮と同様、慣習ものは廃止
となっていますので男性が多い職場の私は安堵してますし
この時期はインフルエンザが流行していますので人ごみに
行きたくなく催事とは無縁です
サッ


チョコレートの商品が冬に多いのはバレンタインに合わせて
いるわけではありません。むしろバレンタインがチョコの旬に
あわせているのかもしれませんね。

カカオはカカオマスとカカオバターでできています。
このカカオバターは低温で溶けやすいため精製には秋〜冬が
向いているのです。

特に口解けのよい高級?チョコはカカオバターの含有量が
多い為今の時期に販売するのが最適なようです。
(勿論チョコレートショップでは一年中ありますけど・・)

健康志向の方でチョコを買うポイントですが、カカオ○○%
と含有量が記載されていますが、これはカカオマスとカカオ
バターの合計の事なんです。

同じ70%でも商品によってはカカオバターの含有量が多いものが
あります。裏面の成分表は含有量の多いものから記載する事が
法律で定められていますので先頭に「カカオマス」と書かれて
いる商品を選ぶと良いと思います
カナヘイハート

またカカオマスの中には栄養が豊富で、古代は薬としても
珍重されてきました。
・ポリフェノール(抗酸化作用、動脈硬化予防、癌の予防効果
 やストレスへの抵抗力を高める効果等も報告)
・テオブロミン
大脳を刺激して集中力や記憶力、思考力を高め、気力をUP
 他にも食物繊維などもあり、美容にもよさそうですね^^

但しカカオの含有量が高いほどカロリーも高いので食べ過ぎ注意。
あと、頭痛もちの方は悪化する可能性があるので控えめで。
少量をちびちび食べるほうが持続効果が高くオススメです。

チョコレートよりもカカオバターを減らした「純ココア」
(未調整)も好きです。冬はココアパウダー、少しの砂糖と
牛乳を弱火で練って牛乳を足して作る正式な?ココアを飲みます。
香りも高くリラックス^^(調整ココアよりも美味しい!)

今は少しまだ頭痛が残っていますがココアや美味しいチョコが
食べれるようになるのを楽しみにしたいと思います
とびだすうさぎ2
近い?言葉で言えば、各論と総論。
ここの所、話題の大統領のつぶやきや大統領令など「点」の話
ばかりに注目が集まり人々が振り回されている様子を見かける。

ニュースは放送する局が意図的に、ある瞬間を切取ったものという事は
過去から変わりなく、それを自覚して見続けていくほうが良いと思う。

目に見える問題をもぐら叩きのように直接潰していくことは楽だし
手っ取り早いが、目先の利益や結果を追っていては長期的に辻褄が
合わなくなり、原因が更に輻輳化し叩く数も増え追いつかなくなる。


全体を見て、自国の事だけではなく世界レベルでの関係を見極め
ながら根本原因を対処することのほうが長期的に利点となる。
ただこの方法は目先の結論が見えにくい為、総じてぼんやりして
見えることから先を見越せない人達にとっては不満を感じるものだ。


各論を話しながらも、背景には必ず総論・概念がある。
もし、背景に何もなければ各論の発言は度々ブレるはずだし
総論からも大きく外れた発言が多く見られるはずだ。

ただ矛盾点はあるものの、当初からの発言には大きいぶれがない為、
何か背景に彼なりの大きな信念を持ち合わせているように思う。
良し悪しは別として。
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種を撒き、時間をかけてゆっくりと成長したものは、
地中で大きく根を張り、やがて何年後かには大きな実が結実する。
その翌年も立派に実っていく。

急いで育てた作物には、実はあまり栄養分が蓄えられていない。
見かけ上は同じでも、中身のないものである事が多い。
それは人も同じではないかと思う。

また、本来1年かけて育てるモノ一つと、それを年に何度も収穫した
モノのトータルは土壌に含まれる栄養分が変わらない為、収穫を増やせば
沢山の肥料を人工的に足して育て、大量の水(資源)も必要とする。
無理に作ったものは、その畑だけではなく間接的な私達にも波及する。

どちらがよいかは消費者に委ねられた好みの問題かもしれないが、
選択肢を増やしてまで個々のモノの質を下げる必要はないと思っている。

私は、その季節に自然に実ったものを選択することが
結果的に理に適った食べ物で、体の調子も良いように思うので
スーパーでも可能な限り旬のものしか手に取らない事にしている。


また、大きな会社の社長も雇われ・・つまりサラリーマンである。
言い方は悪いがやはり責任の所在が軽いし、動きも軽い。

2〜3年でどんどん交代していくが、見ていると面白いように、
新しいリーダーとなったらまず前リーダーの痕跡を消す事から始め
方針を180度転換する。(つまり2〜3交代に一度は過去やった
同じ事を繰り返す)当然の心理なのか、はたまたミッションなのか。
壊しては作りする様子を見ているといつも無駄で仕方ないと思う。
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随分と話が逸れてしまったが、かの大統領を見ていると
現時点では各論しか報道されていない。また、痕跡の消し方などを
見るとまだ大統領ではなく、経営者の考え方のままのように見える。
国を一つの会社としてみればそんな方法もあるのかと、ある意味
新鮮な考え方については感心してみたり・・。


私がもし日本のリーダーになったとしたら、鎖国したい位なので(笑
自国民を守るという強い気持ちは良く分かる。
ただ、それを初めて?あからさまに出すリーダーである事から
他国との関係性の重要度についてはまだ不透明なままだ。

まだ各論ばかりで、本音が見えてこない。個人的感情で動いて
いるようにも見えるが、誰しも自分の経験からしか物事は語れない。
徐々に総論が見えてくることになると思うが、どんな思いなのか
いずれ分かってくると思う。

誰かが豊かになれば、同じだけ失う人がいる。トータルでは同じ。
地球は1つしかない。国境を築いてそこに暮らす人々が毎日を
幸せに暮らせる為には、どのような方法を取るべきか。

点ばかりを見るのではなく、もっと全体を見てゆく必要は
私たちにもあると思う。結果だけではなく、プロセスを。


まだ日が浅く評価のしようもないし、私はする立場には勿論ないが
人は与えられた役目についた後、初めてそれに相応しい人間になるもの。

彼の今後の動向を見ていきたいと思う。
一緒に過ごすことは、ほんの僅かしかなかった。
私は自分の足で人生を歩む選択をしてから
長い時間が経過している。

親を決して憎んでいるわけではない。
でも、許す許さないというものでもない。
今更分かり合おうとも思わない。
正直、感謝の気持ちも全く芽生えてこない。

この世に生まれた時からついて回る呪縛。
振り払おうとする程きつく巻きついて更に苦しめられる。

そろそろ人生も終わりに近い側にいる事を感じる。
それはまだ先だけれど。
その時が来ても、分かり合いたかったという後悔はないと思う。
実父が亡くなったと便りを聞いた時も何の感情もなかった。
私の記憶にはない人物。
掘り返せば産まれた頃は思い出せるのかも。
母は実父全ての痕跡を消し、写真すら見たこともなかった。

多少、今のうちに一度母と2人で話してみたいと感じている。
自身のために、当時の気持ちを改めて聞きたいとも思うが
その必要もないとも反面思う。


母が再婚してから、母とサシで話すことはなかった。
いつも横に居る義父からの発言が母の代弁、全てであったため
話し合いの気持ちも喪失していた。
長い間、私も言葉を交わすのを拒絶している。

振り返って考えると、母親の気持ちを直接聞いたことはない。
叔父や叔母から当時の母の様子を聞くと十分思いは分かるが
お金だけで子が育つなら親は要らない。
手をかけて、言葉を交わしてこそ伝わるものだから。

ただ、祖父母との暮らしを経てから僅か3年が母と新しい家族との
暮らしだったが、私にかけられた言葉は、私に対してのものではなかった。
母は再婚を失敗したくないという思いだけで抑圧する言葉と
虐待の毎日は、私が私でなくなるような終わりのない日々。
同居の義祖父母も同様であったが、母の振る舞いが一番辛かった。

これ以上生まれた事を否定された言葉を日々浴びせられない為に。
私は私として生きるために、早くから離れることを決断した。


だが、生まれた事を全否定する言葉は日々子供の頃に繰返し
植えつけられ鋭い棘は今も深く突き刺さったままだ。
抜こうとする度、今も体調を崩す。

一人強く生きる決意をして知らない街に来てからは新しい日々を
紡ぐ毎日。長い年月が経ち強く生きるほど、その呪縛から逃れたい事が
生きる原動力だと感じ、酷く落ち込むことも度々ある。

このまま呪縛だけが残り、自身が朽ちていくのは避けたいと思う。
もう関係のない事、手放しても良いはずなのに時折頭をもたげる。
心のどこかで、まだ自問自答を繰り返している。

日々穏やかに過ごしたい。今はただそれだけが私の願いなのに。

私は一体何者なのか。