私は昔から写真が好きで初めて買ったカメラは
マニュアルの一眼レフ。フィルムで撮って現像していた。
知人に言わせると写真は芸術ではないと言う。
真実をただ写し撮るだけのものであればそうかもしれない。

そしてデジタル一眼が当たり前になってしまった今は
自身もカメラに対する魅力が半減しているのも事実だ。

設定を沢山いじってモニターに表示されているものが
ほぼそのまま写っているのだから現像して確認をする
必要もないしフィルム代を気にする事もない。

更には、スマホでも気軽に撮れてしまう為に何か
「ありがたさ」がなくなってしまっていると感じてしまう。

二度と撮れない景色を切り取りフィルムの現像があがるまで
思い通りに撮れたかどうかドキドキしながら待っていた。

気軽さとひきかえに何かを無くしてしまったように思う。


このごろは本物かどうか分からないくらい映像技術も進化し
CGと実物の区別もつかないような映画も沢山出ている。
いまどきもTVで「心霊写真」なるものを時折やっているが
ほぼ100%加工しているんじゃないの?と思ってしまう。


ただ、過去から私が知っている一眼レフについては既に撮るまでの
様々な設定が必要だったし、その時点で既に「ありのまま」では
ないと思っている。またデジタルで加工することで
「本当は自分がこんな風に見えていた」ものを作り出すことは可能だ。

それが、見たときの感動なのか、迫力なのか、鮮やかさなのか。
自分の切り取るものが「こうであってほしい」というところに
どこまで近づける事ができるかに関しては今も昔も難しさは
同じではないかと思う。手軽さはどこにもない。

「自分が思ったことを表現する」

それが言葉なのか、演技なのか、絵なのか、写真なのか・・手段が違うだけ。
私もブログを書いているが人前で書くからには
やはり何かを表現したいから模索しているのだと思う。

思ったことを的確に表現する事は簡単なようであまりにも
難しい。一生の課題なんだと思う。


手作りの芸術と同じようにデジタルでの表現もまた芸術で
あってよいと思う。これだけ世の中が進化しているのだから
芸術の定義も変わっていくのだと・・。

ありのままとはなんだろう。
それをどれだけ伝えることができるのだろう。
なぜそれを伝えたいと思うのだろうか。

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今月も更新が滞っていますが何か自分の中に怒り?
のような感情があり、書いてはボツ書いてはボツを
実は毎日繰り返していました。

少し思う事があり何を書いてもそれに囚われている
自分に嫌気がさしますww
今年に入り、にわかに「人工知能」という言葉を
TVなどでも耳にするようになりました。
インターネットを使わない世代でも聞いた事はある
と言われる人も増えてきました。

既にIoTもビッグデータという言葉も死語になるほどの勢いです。

丁度、私がその只中に置かれている状況です。
過去からずっと蓄積してきたデータそのものの活用について
ここ1〜2年の間議論されていますが正直膠着状態です。

というのも現在世の中に存在するデータは各システムやサーバに
別々に蓄積されているものが大半です。
(オンプレミスやイントラネットなど)セキュリティ等の制約で
企業はまだこちらに重きを置いています。

近年漸くクラウドという概念ができた為、事なる目的のデータでも
1箇所に集められるようになりました。
(インターネットを経由したオープンシステム)

ただ、それもほんの10年前の話なのでそれ以前の蓄積データは
散らばったまま。かき集めないかぎり同じ指標で分析する事が
できないのです。

人がネット上で入力する情報の他にもIoTに対応する製品から
送られるデータや街中の防犯カメラなどをはじめとしたクラウドに
蓄積されているビッグデータの活用は比較的安易です。

かたや各企業が抱えている問題は数十年以上も前から目的別に
作られた複数のシステムの中に存在するデータや
定年退職が近づいているパソコンが苦手なベテラン達の
頭の中にある知識のデータ化なのです。


企業では人工知能の導入も徐々に進んできていますが
どの会社でも「散在する過去データの壁」に阻まれています。

例えば、IBMが開発している「Watson」を導入するとして
一番どうにかしたい過去のデータを学習させようとしても
そのままでは使うことができず、Watsonの為に学習用の
データに全て作り変え集約する作業がまず必要になります。
過去何十年のデータを作り変えること自体、無理がある。

では、完全カスタムした別の人工知能で散在しているデータを
学習する事は不可能ではありませんが、やはりデータベース別に
解析が必要になるうえ、サーバ同士を認証させるなどの作業も
時間を費やし導入にはトータルで莫大な費用がかかります。


その為、現在「人工知能」と言われているものは一般的には
1つの目的に対し1つのカテゴリのデータだけを学習する
タイプか、他カテゴリのデータから近似データを拾うだけの
タイプのどちらかしか存在しません。

現在は後者の事を人工知能と呼んでいるようですが
ディープラーニングまでは行っておらず旧タイプと
言わざるを得ません。つまりまだ本当の「人工知能」とは
呼べないものなのです。

進化を遂げる鍵は過去のデータ解析をどのような方法で行うか。
この確立時期次第という事になります。
予定では2045年と言われていますがもう数年は早まるでしょう。

2006年以前のデータを捨てて新しいデータのみで行うのなら
そう先の話ではないかもしれません。
但しその場合、過去は全て葬り去るということですね。

過去を捨て新しいデータだけで世の中が進化していくほうが
断然楽ですが、果たしてそれで良いのでしょうか?

日本は開発に少し遅れを取っています。民間の予算だけでは
限界があります。どのくらい国家予算を投じるかが勝負の
分かれ目になると思います。
遺品整理の為、何十年ぶりに祖母宅の納戸へ入った。
叔父や叔母で簡単にまとめていたようで不要品は大体処分を
したらしいが、特に先祖代々存在してきた古物などは
まだ手付かずのままになっていた。

そんな状況でモノが多くある為、少しづづ整理しながらも
今年の冬は雪深い年であまり身動きが取れなかったようだ。
仕分けをしながら、廃棄したり譲り受けたりして今回は
いくつか持ち帰ったものがある。


祖母は身の回りを構われるのを極端に嫌う人だった。
特に晩年はその傾向が強くなり、障子の張替えさえも
許してもらえない状況で、入院している間に大慌てで
親戚総出で家中の障子張替えだけは済ませた状態だった。

当時仕事場で働くのは祖父で、家を守るのは祖母の役目
だったため、家の隅々まで考えてモノを配置をしていたようで
移動されたり勝手に処分するなどありえず、すぐにばれる。

今思うと生活パターンは勿論、モノの配置なども全て
その1日のルーティンに組み込まれていたように思う。

祖母は箱好きで、1つ1つの中には趣味の折り紙の材料や
刺繍に手毬、編み物の材料一式だったりと一目で分かるように
いつも箱書きし整理されていた。

祖父は働きに出ていたので時間と共に行動していたが
祖母は完全に太陽と共に行動を共にしており、仏様や神様の
お供えから二十四節気などの年中行事も正確に行われていた。


納戸では、やはり木箱に全て祖母の字で書かれた食器などが
積みあがっていた。子供の頃お祭りなどで親戚が集まる時に
しか使わないしつらえの良いものも綺麗にしまわれていた。

奥には、なんと購入時の箱に私の綻びたランドセルが入っていた。
当然捨てている物と思っていたのだが、叔父は祖母が大事に取って
いた為そのままにしたいそうで、触らずにしておいた。

また、納戸の奥に茶道具の入っている箱を見つけた。
子供の頃、祖母が夜になるとお抹茶を立てていた様子を思い出す。


現代に比べれば主婦は早朝から深夜まで働き通しで、夕食後
片付けが終わり、最後のお茶時間になると漸く自分の余暇と
なるようで(お茶どころの為、1日4回はお茶の時間がある)

箱を持って来ては夜遅くまで編み物をしたり、週に何度かは
点茶をしていた。当時旅行もする事がなかったように思う
家を守り続ける祖母の密かな楽しみだったのだと。


岡持ちのような茶道具箱を開けると当時のまま最上段に
道具があり、その下は計5つの抹茶椀が入っていた。
上段に竹の柄杓が吊るせるようになっている。

その中から子供の頃の記憶に残っていた白黒で陰陽のような
デザインの浅広型の焼物、清水焼であろう扇子柄の椀を
譲ってもらい、他には古伊万里の食器や重箱も持ち帰った。

曾祖母も骨董好きだったらしいので、一体いつ頃のものか
分からないけれど、欠けもなく大事に扱ってきた器ばかり
なので私も日常で大切に使っていこうと思う。

うまくは言えないけれど、
残るものと変わるもの両方が共存してこそ
未来の行く末が見えてくるのだと感じる。
更新がかなり久しぶりになってしまいました。
年度明けの業務にギリギリまで忙殺され、
何とかGWに突入し長らくお休みしました。

今回は祖母が亡くなってから手付かずだった
遺品の整理を兼ねて祖母宅の山間でネットから
遮断された生活を暫く送っていました。
勿論、皆様のところにも訪問できず・・

今の生活は便利で手のひらにスマホがあれば
何でもできる状態ですが、ネットも繋がらず
圏外である事に最初の1〜2日は毎回不便を感じます。

確かに有事の際連絡が取れず速報も来ない状況で
ニュースもTVの局が極端に少ないので、見分ける
どころか偏った情報しか見聞きできないのです。

2日もすると割と諦めることができます。
たまに街中に買出しに出たときネットニュースを
拾う程度で調べ物も固定電話や書物を駆使すれば
できなくはありません。

物忘れをした時も、すぐにググるのが日常ですが
頭の中にある沢山の引き出しを開けながら
記憶を辿る事も普段なかなかできない事なのです。

数日もいると本来の人間の「勘」なるものが
蘇ってきて、自分がいかに何かに頼った生活を
しているかを痛感します。

また登山やハイキングに行けば自然の音も
聞くことができますが、夜とどまることはできません。
その点、祖母の家はその集落の一番奥にあり
身内以外の人が来ることはありません。
新聞と郵便が来るくらいで、あとは本当に
自然の音しか聞こえてきません。

でも飽きないのです。何もないどころか時間の
経過により鳴き声や風や川の音も様々で
静かに過ごすことができました。

田植えの時期で夜はカエルの合唱も心地よく
朝はウグイスが鳴いて起こしてくれます。
おかげさまで体調もすっかりよくなりました。

これから進化が益々加速する世の中に比べると
取り残されたような場所ですが、絶対になくして
はいけないと思います。
この場所があるから今の私がここにいられるのだと。

そんな事を感じながらまた今日から仕事ですww
ここのところ、全くイン自体ができておらず
申し訳ございません><

自分の記事更新もですが、皆さまのところへも
お伺いすることができずすみませんでした・・。

年度末から新年度にかけて業務が多忙を極めており
体調面はなんとか寝込まないよう踏ん張っていますが
パソコンに向かう時間がほとんど取れない状況です。

出張も多く、折角東京に行っても降り立ってすぐに
2本会議をしてすぐにとんぼ返り・・などという
悲しい状態が続いています。

気がつけばもうこんなに日が経っていたのかと
思うほどで自分でもびっくりしています。

少しづつ慌しさは収束に向かっておりますが
ゆっくりと更新というところまではまだ少し
かかりそうです。

また改めて皆さまのところへもお伺いさせて
いただきますので、どうぞ宜しくお願いします。