Dream Box -4ページ目

Dream Box

このブログの内容は5割の誤解と4割の勘違い、2割の嘘で成り立っています



1980年代に“なぜか”日本でアニメになった『白い牙』

しかも絵柄を見ても分かるように、キャラクターデザインはガンダム等でおなじみの(?)安彦良和です

この原作を書いたアメリカ人作家のジャック・ロンドンは、別の作品『スナーク号の航海』で「私が王であるならば、敵に加える一番ひどい刑罰はソロモン諸島への流刑だろう。しかし、考え直してみると、例え王様であってもなくても、それだけは私にはできないと思った」と語っています

『白い牙』と並ぶ代表作の『野生の呼び声』などで動物・自然文学作家として名の知られているジャック・ロンドンですが、厳しい境遇に育った事で当時から流行し始めた社会主義思想に傾倒し『どん底の人々』などプロレタリア文学っぽい物も書いてたりもします

そんな彼が最悪の流刑地として名指ししたのがこの『ソロモン諸島』でした

  ┌─┐
_☆☆☆_
  (;´_⊃`)  (;´д`) 「そんな所で戦争させられてた俺らっていったい・・・」



どうにもグーグルマップが使い難く改悪されてしまったのでヤフーマップを使ってみました


日本軍はソロモン諸島南端に近いジェラスール島のツラギ島に水上機・大型飛行艇の基地を作ったもののの、敵空母艦載機に殴り掛かられたら防ぐのは不可能なので隣りのガダルカナル島に地上機用の飛行場を作る事にしました

完成すればルンガ飛行場と呼ばれる事になるこの飛行場を作る為に7月頭から設営部隊約2100人に護衛の陸戦隊430人を付けて送り込んでいました

1942年8月15日の完成をめざし、7日には滑走路の一部が使用可能になり先遣の戦闘機隊がラバウルから飛来する事になっていたのです

しかし当日、先にやって来たのは米軍(米軍主体だが一部英豪軍も参加の連合軍)の方でした

日本軍は本格的な反攻は開戦前後に作り始めた戦艦や空母などが戦力化する1943年秋頃と判断し、それまで米軍は守勢を保つと予想していました

しかし真珠湾攻撃から半年間に亘って負け続けたアメリカがミッドウェイ海戦で勝利した事で戦略のイニシアチブを取れるようになり、敗北のリスクが低く局地的に負けたとしてもその影響も少ない地域だったからこそ反攻の狼煙となる戦場として選んだのがこのソロモン諸島だったのでしょう


『ウォッチタワー作戦』と名付けられたこの反攻作戦は当初ツラギ島の日本軍水上機基地の攻略を目指し8月1日の発動に発動される予定でしたが、ガダルカナル島にも飛行場が建設中である事が判明し、こちらも合わせて攻略する為の準備に1週間延期されて8月7日の開始となったのでした

これが更に1~2日遅れていればラバウルからの戦闘機隊が到着していて、米軍は制空権が取れない事から作戦の中止に追い込まれたかもしれません

7日に到着する予定だった先遣隊もそこそこの規模だったものの最大空母3隻からなる敵航空力を跳ね返すのは無理だったでしょうが、実際にこの作戦の初期にラバウルから飛来する零戦を見た米軍空母機動部隊の指揮官は敵空母が近在にいると誤認してガダルカナル島水域から避退する判断を下しています(日本軍が空母4隻を失った2ヶ月前のミッドウェイ海戦の状況と酷似していた為)

この時期はまだ零戦の長大な航続力は知れ渡っておらず、まさかラバウルから1000km離れたガダルカナルまで往復できる艦上戦闘機があるなど思ってもいなかったのです(尤も行動範囲としては限界であり、ガダルカナル上空での滞空時間は10分程度しかなかった。また同時に送り出した99艦爆は航続力が足りずラバウルまで帰還できないので中途で着水させ、乗員だけ回収する為に水上機母艦の秋津洲が派遣されていた)

ミッドウェイ作戦の陽動として行われたアリューシャン列島への上陸作戦時に零戦の1機が不時着したのを米軍が回収しており(アクタンゼロ)、これを調査してその特性が明らかになっていった最中の事でした


8月7日に奇襲的に攻撃を受けたツラギ・ガダルカナルの日本軍はひとたまりもなく敗退します

ツラギ島の警備部隊も250人程度で、両島に合わせて2万人近い兵力が攻め寄せて来た訳で、奇襲が成功した事もあって守りきれる筈もありません

ツラギ島の基地要員・守備隊は2日ほどで全滅し、ガダルカナル島でも飛行場を捨てて一時退避を余儀なくされるのでした(この時点で1000人以上が生き残っていた)

これに対しラバウルの日本軍は直ちに反撃の準備に取り掛かりますが、初動の態勢に早くも問題がありました


理由は幾つか(も?)あります

まず前記事で語ったようにこの時期、7月末から陸軍がポートモレスビーの陸路攻略作戦を始めていた為に、ガダルカナルへの増援兵力が用意できなかった事(大本営参謀の辻政信が嘘を吐いて攻略作戦を独断で発動させてしまった。これによりミッドウェイ攻略に用意され、それに先立つ海戦の敗北により中止になり宙に浮いていた幾つかの部隊がこちらに転用されていた。結局、現地軍間での協議でガダルカナル奪還の陸軍の協力が得られたのは13日以降、先陣の一木支隊の上陸が18日。それまでは海軍の陸戦隊を送り込むつもりでいたが1000人に満たない小勢しか工面できなかった)

在ソ連日本大使館からの情報で米軍の反攻は限定的で、飛行場の破壊を目的としており恒久的な奪取を目指していない、つまり飛行場の破壊が成功すれば撤退するという情報が伝わっており、大規模な攻撃だと考えられていなかった事

この時期にラバウルの海軍人事に変更があり、前任の井上成美中将から三川軍一中将への申し送りに「この時期に米軍の反攻はない」と伝えられてしまっていた事、さらに新部隊に交代された事で現地海域の地理や状況に不案内だった事

海軍は7日にラバウルから航空機約50機からなる攻撃隊を送り、輸送船10隻他の大戦果を挙げたという報告を受けて既に敵の攻撃意図を挫いたと判断していた事(これが3つ前の記事の冒頭にあった超低空で攻撃侵入する一式陸攻で、実際には輸送船1隻しか沈んでいなかった)


これらの事情の下に、この方面を担当する第8艦隊の三川提督は敵上陸部隊、というよりそれを支援する輸送艦と護衛部隊を撃破すべく艦隊の出撃を決定します

新設されたばかりの第8艦隊旗艦『鳥海』に古鷹型重巡洋艦4隻『古鷹』『加古』『青葉』『衣笠』の第6戦隊での“殴り込み”を仕掛ける作戦です

これは第8艦隊首席参謀神重徳大佐の発案とされますが、彼はこの後もこの作戦の『成功』を以って捨て身の突入作戦を繰り返し行う事になります

ある意味勇猛果敢な指揮官(というか参謀)と言えますが、その行動パターンはすぐに敵軍に把握され対応を編み出されてしまうのですが、いわゆる陸軍でいうところの『突撃将校』の類と言えるでしょうか

この出撃に際しラバウルにいた第18戦隊が同行を申し入れて来たものの、この部隊は旧式の軽巡洋艦『天龍』『夕張』と同じく旧式の駆逐艦『夕凪』からなり、戦力として疑問だったのと夕張の動力が故障中で速力が低下しており、敵空母艦載機の攻撃を避ける為夜陰に紛れて最大戦力で戦場に突入し離脱する今作戦の足手纏いになりかねないとして断ろうとします

しかし18戦隊側から一歩も引かない勢いで参加を要請され、根負けして同行を許可することになります

ラバウルから戦場となるガダルカナル島まで直線で約1000km、実際には欺瞞航行や潜水艦の襲撃を用心しながら進むので24ノットの速力(約45Km/h)で丸1日の距離になります

ラバウルからの出発が7日午後2時30分で、現地ツラギの守備隊が早朝の午前4時20分に敵襲を察知していたので軍艦8隻の出撃までに要した時間としては迅速な対応だったと言えます



http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im4626824ニコニコ静画坂崎ふれでぃ“【艦これ】天龍ちゃんの第一次ソロモン海戦【史実】”

動画は長いよという方はこちらを参照してください

ニコ動のアカウントを持ってれば、画像クリックで大きい絵で見る事が出来ます


「高雄型の4番艦、鳥海です。
マレー、ソロモン、マリアナ、レイテと数々の作戦に参加しました。
鳥海の名は、現在、海自のイージス護衛艦、その4番艦に受け継がれています」














「鳥海」は愛宕型重巡洋艦の4番艦です

本来この種の重巡は同型艦で戦隊を組んで(高雄型は第4戦隊)1セット、或いは2隻ずつの小隊毎に運用される物です

鳥海は豪華客船の建造経験が豊富な三菱造船で造られた為か艦内艤装が充実していた事から旗艦として使われる事が多く、この新編の第8艦隊でも前任の南遣艦隊から引き続いて旗艦に指定されました

当初は艦隊司令部の宿舎として使うつもりでいたのでしょうが、配属からひと月も経たない内にソロモン海が激戦化し、結果として日本海軍随一の戦歴を誇る艦になってしまいます


1942年8月8~9日

8月7日午後2時30分にラバウルを出港した襲撃部隊は旗艦の重巡「鳥海」を先頭に第6戦隊の重巡「青葉」「衣笠」「古鷹」「加古」、無理矢理帯同した第18戦隊の軽巡「天龍」「夕張」駆逐艦「夕凪」の8隻からなっていました



この艦隊は出港直後から敵軍に発見されており、航路偽装を行いつつ(当初ブーゲンビル島の北へ向かった事で米軍はこの艦隊の目的をサンタイザベル島と判断した)8~9日の深夜から払暁にかけて敵上陸部隊・支援艦隊に襲撃を行い、陽が昇って敵空母艦載機の攻撃を受ける前に圏外に離脱する事を目指していました(突入は8日2330時以前・離脱は翌9日0440時までと計画された)

7日のラバウルからの長距離航空攻撃に本来は空母艦載機である零戦がいた事で、米空母部隊指揮官が日本空母が近在にいるものと誤判断し、戦域から離脱する事を決めていたのを知る由もないのは当然でした

この為第8艦隊は1回敵艦隊にすれ違いざまの攻撃を掛けて離脱するという作戦を採る事になります

この判断が後に重大な影響を与えるのですが、これもまた仕方ない事と言うべきだったでしょうか

これに対しガダルカナル島北方水域には第62任務部隊の巡洋艦8隻・駆逐艦15隻・輸送艦23隻



さらに第11・16・18任務部隊の空母『ワスプ』『エンタープライズ』『サラトガ』、戦艦『ノースカロライナ』を中心に26隻が控えていました

(; ・ω・) 「そこに重巡5・軽巡2・駆逐1で突っ込もうとするって…知らないって凄い」

しかしこの指揮官フレッチャー少将は珊瑚海海戦とミッドウェイ海戦で2隻の空母を失っており(レキシントン、ヨークタウン)、敵空母部隊の動向が不明なまま飛行場のある島を攻撃するというミッドウェイ戦と攻守を替えたような状況に不安を覚え、上陸部隊のヴァンデクリフト少将とその援護部隊の第62任務部隊司令のターナー少将とクラッチレー少将に戦域外への離脱と敵空母の捜索を行う事を通達してきました

これを受けてターナーとクラッチレーはヴァンデクリフトと対応策を講じるべくツラギ上陸船団の輸送船「マーコレー」に移っていきます

この時ターナーとクラッチレーは自分らの代理指揮官を指名しないまま司令部を離れてしまっており、この後に襲来する日本艦隊との戦闘に混乱の種を残してしまうのでした

9日朝まで続く揚陸作業と7~8日の日中はラバウルから飛来する攻撃機への対空戦闘に追われ、兵士の疲労はつのる中、8日深夜に第8艦隊は突入して来るのでした



戦闘の詳細は割愛します

米軍の警戒艦として前方に配置されていた2隻の駆逐艦は、レーダーが島陰に紛れる日本艦隊を探知できずに気付かないまま接近を許します

サボ島の南から水域に侵入した日本艦隊が先に敵艦隊(南方部隊)を発見しこれを圧倒、続いて左舷前方に別の敵艦隊(北方部隊)がいるのを察知します

北方部隊は日本艦隊を味方の南方部隊と誤認し、暗闇の中に浮かぶ戦火を地上戦闘か日本艦隊でも威力偵察レベルの小戦闘と判断してしまいました

司令官であるターナー、クラッチレーらが旗艦を離れていたが故の混乱でした

結局先手を取られ、その混乱から抜け出せないまま一方的にやられ続けた第62任務部隊は、

重巡「キャンベラ(豪)」「アストリア(米)」「ビンセンス(米)」「クインシー(米)」を失い、

重巡「シカゴ(米)」、駆逐艦「ラルフ・タルボット(米)」「パターソン(米)」が大破という大損害を負います

一方の日本艦隊は旗艦重巡「鳥海」「青葉」が小破のみと云う大勝利でした

但し帰途において第6戦隊が途中で潜水艦の襲撃を避ける為の之字運動(潜水艦の雷撃は命中して初めて存在が分かる事が多いので、アトランダムにジグザグに進路・速度を変えて潜水艦に密かにでも狙いを付けさせない様にする艦隊運動。非常に面倒くさく、また目的地に着く時間が余計にかかる)を、もう大丈夫だろうと戦隊司令が止めさせた途端に雷撃を喰らい重巡加古が失われてしまいます



と云うのは、この作戦の目的は上陸部隊・輸送船団への攻撃であり、敵護衛部隊に一航過かけて離脱したのでは何の意味も無かったからです

離脱直後に艦隊がほぼ無傷だった事から引き返してそれらを殲滅すべきという意見もあったのですが、第8艦隊にしてみれば所期の作戦行動に沿っており、今から引き返して攻撃を反復した場合日の出までに戦場を脱出できずに敵空母艦載機の攻撃を受ける可能性が高い事(但しこれは杞憂だったが、日本側が知る由もなかった)から艦隊参謀長と神重徳先任参謀は帰投を主張し、これが採用されたのでした

この手段と目的を取り違えた様な近視眼的な戦闘勝利主義は、この後の日本海軍にも何度となく見受けられる様になるのでした

この報を聞いた山本五十六聯合艦隊司令長官は、上陸部隊殲滅の目的を達成せずに戦勝を誇るような第8艦隊の行動に激怒したそうです

しかし彼とて元々この襲撃作戦には否定的で、作戦の認可についても聯合艦隊の立案でない現地部隊の独断として許可を出していた等、疑問に感じざる部分が無かったわけではありません

なお、ツラギ基地奪還の為にかき集められた海軍陸戦隊を中心の1000名弱の増援部隊も輸送中に敵潜水艦の攻撃に阻まれ途中で引き返しており、戦闘の勝利も殆ど意味が無くなってしまったのでした


米軍側(というかこの頃は米英豪の連合部隊)にしても

・空母機動部隊が損失を怖れて戦場を離脱している事、

・上陸護衛部隊の指揮官が代理も決めないまま持ち場を離れていた事、

・作戦発動から2日目で疲労が先に立っていたとはいえ、各艦の艦長クラスが敵の襲撃の可能性が最も高い夜に仮眠をとるべく艦橋を離れていた事、

と敗因に足る要因を自ら作っていたのも事実でした

さらにこの敗北で輸送艦隊は揚陸作業を切り上げ撤退する事になり、上陸部隊はしばらくの間火力や食料の不足に悩まされながらの戦いを余儀なくされたのでした

と言っても1日3度の食事を2度に制限する程度で、戦死よりも飢え死にする方が多かったガダルカナル島の日本軍とは状況は雲泥の差だったのですが

有名な話では日本軍が残して行った製氷施設を活用してアイスクリームまで供給されており、トージョーアイスクリームカンパニーなどと呼ばれていたそうです


http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im3613347ニコニコ静画“坂崎ふれでぃ【艦これ】青葉と加古【史実】”

http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im3932007ニコニコ静画“坂崎ふれでぃ【艦これ】第八艦隊【史実】

併せてこちらも参照されると文字だけで語るより分かりやすいでしょうか

この坂崎ふれでぃ氏は本業はエロ漫画家らしいのですが、こちらのジャンルでの検証は至って真面目です





( ・ω・) 「ここから4ヶ月に亘って激戦というのも生温い死闘が繰り広げられる事になるのでした」




日本軍は開戦後にラバウルを制圧し南方進攻の拠点とします

一方連合軍側はポートモレスビーにオーストラリア軍が基地を持ち、米領サモアは19世紀後半からアメリカが、ヌーメア(ニューカレドニア)・フィジーはイギリスが植民地としてきた事から、この戦争を睨んで軍事拠点化が図られてきました


攻略と言っても彼我の距離は余りにも大きく、ラバウルと各拠点との距離は

ポートモレスビー :約760km
ヌーメア     :約2500km
フィジー     :約3200km
米領サモア    :約4000km

もあり、ポートモレスビーなら爆撃機は行動範囲内に収められる物の戦闘機の護衛を付けるのは無理であり(日本の零戦なら可能だが、1942年春の段階ではラバウルに増加タンクが届いていなかった)、フィジー・サモアに至っては長大な航続距離を誇る二式大艇(航続距離7~8000km)ですら往復がギリギリ~困難という距離でした

1942年5月8日に行われた『珊瑚海海戦』はフィジー・サモアを攻略するFS作戦を前に、側面・後背を扼されるリスクを除くためにポートモレスビーを陥落させようとしたものでした

ポートモレスビーを攻撃し上陸部隊を送り込む『MO攻略部隊』と、それを妨害に出てくるだろう米空母部隊叩く『MO機動部隊』に分かれた作戦です

また中間のソロモン諸島・ツラギ島に水上機基地を設ける作戦も同時に行われていました



結果だけ言うと海戦で負った損害の大きさにポートモレスビー攻略を諦めた日本軍の負けです

日本側は軽空母『祥鳳』を失い正規空母『翔鶴』が中破、米軍は正規空母『レキシントン』を失い正規空母『ヨークタウン』が中破で、損害だけを見るなら日本の勝利とも言えるのですが、この海戦の目的はポートモレスビー攻略(日本)とその妨害(米軍)ですから、目的を達成したのはアメリカ側なのは瞭然です



もっとも豪州と目と鼻の先にあるポートモレスビーを占領しても維持できたかという疑問はあったわけですが、どうもそれについて考慮された形跡が無いようです

ここを落とせなかった結果、翌43年3月のビスマルク海を航行する輸送船団がポートモレスビーから飛来した攻撃機により全滅させられるなど(ダンピールの悲劇)、日本軍の南方戦略は常に側面から脅かされ続ける事になるのでした

この後、6月5~7日にかけて行われたミッドウェイ海戦で空母4隻を失う大敗北を喫し、基幹戦力を失いFS作戦の実施は不可能になってしまいます

フィジー・サモアの攻略による米豪連絡線の『遮断』を目指すFS作戦は『妨害』を目指すSN作戦へと変わります

やる事は似ていますが、ソロモン諸島・東部ニューギニアの航空戦力の拡充と拠点の整備というミッドウェイで失った空母の代わりに沈まない飛行場を作り、その哨戒力とエアカバーの下で米豪連絡線への通商破壊をやろうとしたのです

ソロモン諸島の東端に近いツラギ基地は大型飛行艇と水上機の基地ですが、要撃力が低く大型爆撃機や空母艦載機の本格的な攻撃を跳ね返す事が出来ないことから、その南方にあるガダルカナル島にルンガ飛行場と名付けられる事になる陸上機の拠点を設けようという作戦でした(加えて既存のラバウル・ラエの強化も)


しかしここで1つ問題が生じます

5月の珊瑚海海戦と6月のミッドウェイ海戦の敗北直後の6月14日に『大本営』は現地軍(と言っても司令部はフィリピン)に対し「陸路でポートモレスビー攻略は可能か研究せよ」との『指示』を出します(命令ではなく指示)

この時大本営はすでにFS作戦の中止(というか実行はもはや不可能)を考えていましたが、現地軍には2ヶ月の延期と説明するに留めていました

6月30日に『研究結果』がフィリピン・ダバオの司令部に提出され



(;´・ω・`) 「無理っす」

( ´・ω・`) 「だよねー」

地図上でも何となく山が連なってるのが分かると思いますが、これはオーエンスタンレー山脈といって標高3~4000mの山脈を越えて行かねばならない事が判明したのです



余談ですが、松本零士の「戦場まんがシリーズ(後のザ・コクピットシリーズ)」で何度も取り上げられた地名であり、映画『わが青春のアルカディア』の冒頭部分で石原裕次郎をキャスティングしたシーンで登場した場所でもあります




大本営からの『研究』というちょっと不思議な表現も、『命令』にしてしまうと無理とは言えない責任問題が発生してしまうので研究なら忌憚のない現実的な意見が出てくるだろうという判断だったようです

しかしここにとんでもない馬鹿野郎が現れます

7月15日にダバオ司令部を訪れた大本営の辻政信参謀中佐が『り号研究』の実行を大本営は決定したと通達、作戦実施を『命令』します

(;´・ω・`) 「えっマジで?(だって無理って…)」

現地軍はこれに従って作戦準備に入りますが、何かおかしいなと思っていたところ7月25日に当の大本営から電文が届きます

「先般指示したり号研究の結果を送達せよ」

つまり大本営が作戦実施を命じたと言った辻政信が嘘を吐いてた事が判明するのです

しかし7月21日には既に威力偵察と進撃&補給路の整備に入っていた先遣隊が敵と遭遇し戦闘が始まっており、

今さら間違いだったので撤収とは言えない雰囲気だったので、うやむやのまま作戦続行となってしまうのでした

この間作戦中止か続行か協議がされたという様な形跡もないようです

意味が分かりません

もう一度言います、意味が分かりません

大切な事なので3回繰り返します

意味が分かりません


実はこれには一応の意味は有り、ミッドウェイ海戦で空母4隻を失う敗北を喫し戦力の大幅低下を招いた日本軍はFS作戦の延期(と言い繕った中止)を決定しますが、これにより日本陸海軍は現地における担当区域をニューギニア島を陸軍が、ソロモン諸島を海軍が行う事を決めていたのです(だから辻参謀みたいなのが現地にやって来てたわけで)

なのでガダルカナル島に敵が上陸してきたから陸軍さんお願いと頼まれても

(;´・ω・`) 「えっこないだそっちは海軍がやるって決めたばっかじゃん。こっちも取り決めに沿ってニューギニアの作戦始めたばっかだよ・・・」



まさにこの状態

陸軍はガダルカナル島なんて補給が届けられないから無理と派遣に難色を示しますが、海軍が補給については責任を持つと約束したことで「それならまあ・・・」と割ける限りの戦力の供出に同意する事になるのでした(で、海軍が約束した補給が行えたかと言うと、餓島なんて異名が付いた事からもお察しになるわけです)


ポートモレスビー攻略作戦は緒戦こそ相手が装備の悪いオーストラリア軍であり、「何でこんな所攻めてくんだよ」くらいに思ってた場所だったので小規模な戦闘に勝ち続けた為、

( `・ω´・)シャキーン 「あれ!?いける??」

とか思っちゃったのでしょうか

ですが元々研究の結果『重装備が運べない』『そもそも補給路が確保できない』事で攻略は無理という結果が出ていた作戦です

仮にスタンレー山脈を越えたとしても(実際越える事はできた)、ポートモレスビーを陥落させる事が出来るほどの兵力・火力を揃えるのは無理でしたし、また攻略できたとしても維持できる見通しは全くなかったのですが、

最終的にポートモレスビーの手前30Kmくらいまで辿りついたようです

(; ・ω・) 「って行けたのかよ!?」

戦いは8月に入っても続きましたが、そこで遂にガダルカナルの地獄の蓋が開いてしまうのでした

まあここも充分に地獄になるんですけどね





( ・ω・) 「やっと本題に入れます」



『1941』という映画があります



かのスピルバーグが監督した映画で、彼の出世作『ジョーズ』『未知との遭遇』の後に制作されたものの興行的には失敗作と考えられています

一種のパニックコメディとでもいう作品で、真珠湾攻撃直後のアメリカ西海岸で「次にここが攻撃される」恐慌状態に陥る住民や兵士たち、そして実際に攻撃に来た日本軍潜水艦の姿をコミカルに描きつつ風刺しています

実はこれフィクションではなく、実際に開戦直後に行われた日本の潜水艦による西海岸での通商破壊戦をモチーフにしています



日本潜水艦の特徴とも言える水上偵察機を運用できる、航続距離の長い大型潜水艦を敵本土の目と鼻の先に派遣して軍艦や軍事施設よりも貨物船や製油所などを叩き、経済に打撃を与える事で戦争継続を困難にしようという作戦です


                              零式小型水上機

当初はこのような小型の偵察機を1機しか搭載出来ませんでしたが、後には本格的な水上攻撃機『晴嵐』を3機も搭載できる当時としては超大型の潜水艦『伊400型』みたいな物まで造ってしまうのでした






「伊400型潜水艦二番艦、伊401です。
地球をぐるっと一周以上余裕で航行できる長大な航続力と、特殊攻撃機「晴嵐」を3機搭載する潜水空母なんです。
そう、戦略的秘密兵器…秘密なんだからっ!」















ちなみに当然ですが、この当時はまだ超重力砲は装備されていません




それはともかく、日本海軍の元々の戦略思想は敵主力艦隊がはるばる日本近海まで来襲したところを決戦で叩くという、日露戦争の日本海海戦を再現する事でした

しかし第1次世界大戦後のワシントン海軍軍縮会議で国毎の主力艦保有量を対英米の6割に抑えられてしまった事から、決戦での不利が免れないとした日本海軍は遠征してくる敵主力艦隊をその途上で次々と襲撃をかけて消耗させる『漸減邀撃作戦』を基本戦略とします

まず敵本土近海に潜水艦を貼りつけて敵艦隊の動向を探り、昼間は空母艦載機で空襲を仕掛け、夜は軽巡洋艦を旗艦とし駆逐艦多数からなる水雷戦隊で夜襲を掛け、1隻でも2隻でも減らして主力同士での決戦時の戦力差を少しでも縮めようと考えたのです



最初の画像にある巡潜乙型はこの偵察任務の為に造られていました


開戦時、西海岸に派遣されていた9隻(10隻という説も)の日本潜水艦は通商破壊戦を仕掛け、規模としては小さかったものの心理的に大きな影響を与える事に成功します

実際に海岸線から沖合数kmのところで貨物船が雷撃を受けて沈められる様を沿岸住民が目撃したり、オレゴン山中に山火事を発生させるなど、映画で語られるような一種の恐慌状態すら起きかけていたとも言います(友軍機、もしくは幻の敵機を目撃し、対空射撃を始める部隊すらあった)



また日本軍の攻撃に呼応するように、東海岸でもドイツ軍の潜水艦『Uボート』が通商破壊戦を仕掛けており、この時期(1941年末~1942年2月頃)のアメリカ政府・社会は深刻な危機を憶えていたと言われています

アメリカは「次は西海岸に日本軍が上陸してくる」と本気で想定していて、西海岸諸都市の喪失は避けられないものとしてロッキー山脈に防衛線を布いて戦うことを考えたそうです

この事がアメリカの日系移民の強制収容に繋がるのでした

日本軍が上陸してきた時に、帰属意識の高い日系移民が祖国の軍隊に協力して破壊工作を行うのではと怖れた結果、米国籍を持つ日系人も含めた12万人を超える人々が長い収容所生活を余儀なくされるのでした(また米国への忠誠の証を強制され、442連隊戦闘団のような苛酷な戦場に送られる事になる)

また日系人への弾圧はアメリカの要求により中南米諸国にもおよび、さらに多くの日系人移民が強制収容や追放などを受けるのでした(アルゼンチンだけは戦争末期までこの圧力に抗い続けた。日露戦争時にアルゼンチンがイタリアに発注していた戦艦2隻を日本に譲ってくれる等日本とアルゼンチンの友好関係は実は古い)


また開戦から続くアメリカの敗勢による厭戦気分の醸成を怖れたルーズベルト政権は、目に見える形での勝利(要は戦略的に効果は無くても景気づけになるような)を軍に要求します

それが前記事のドーリットル爆撃でした

実際に大した被害は与えられなかったのですが、これまた心理的な効果は絶大でした

日本海軍は緒戦の勝利が一段落した1942年春先から第二段作戦として米豪遮断を試みるFS作戦を考えていたのですが、本土空襲をやられてしまった聯合艦隊司令長官山本五十六はこのような攻撃を受けない様に米海軍が太平洋に展開する為の拠点であるハワイの陥落を目指し、その前段階としてミッドウェイ島の攻略を訴えたのです



さらにミッドウェイ攻略の陽動としてアメリカ本土と目と鼻の先にあるアリューシャン列島に上陸、敵戦力を分散・吸引する作戦も同時に行う事を求めます

一方海軍の最高司令部である軍令部は南方資源地帯とのシーレーンを脅かされない為に、フィリピンの米軍、マレー半島の英軍、インドネシアの現地蘭軍(本国オランダは既にドイツに降伏しているが、植民地の現地政庁や軍はこれを認めておらず連合軍に参加していた)を緒戦において排除していました

しかしここに築いたシーレーンを確保する為にはインドに引っ込んだ英海軍東洋艦隊と、ハワイやミッドウェイから展開、さらに南方のフィジー・サモア(共に19世紀末から英米の植民地)から反攻作戦を行うだろう米軍の脅威も取り除いておく必要がありました

本来なら海軍の総力を挙げてどちらか一方に絞って行うべき作戦が、日露戦争の日本海海戦で奇跡の完勝を遂げ、今またバクチのように思われた真珠湾攻撃を成功させた聯合艦隊司令部という本来なら戦時における臨時の現場組織(日露戦争後に常設されていた)がアンタッチャブルな存在になり、統帥権にすら影響を与えうる存在になってしまっていたのです

結局ミッドウェイ・ハワイ攻略の後にフィジー・サモアも叩くという玉虫色の決着となり、ミッドウェイ作戦は強行、空母4隻を失う大敗北となるのでした(陽動のアリューシャン作戦は成功するものの、敵戦力の吸引は出来ずにこちらも実質的には失敗となり後にアッツ島玉砕の悲劇を生む事になる)


これによりフィジー・サモアを叩くFS作戦は中止になってしまいます

元々この作戦は工業力が低く、戦争継続に必要な物資をアメリカからの供給に頼るオーストラリアをそのシーレーンを破壊する事で孤立させ、連合国から脱落させる事も目的とされていました

広すぎる太平洋は途中で補給ができる拠点もなく横断して直接進攻するのは困難で、米軍は中部太平洋をハワイ→ウェアク→グアム→サイパンと進攻するルートと、サモア→ニューギニア→インドネシア→フィリピンと島伝いに進攻するルートの2つを想定していました

開戦前後から大々的に建造を始めていた新型戦艦や空母群が戦力化するのが1943年秋頃なのは日米両者に共通する認識であり、それまで何もできない中部太平洋ルートより、現有戦力を使いつつ南方の島伝いに転戦していくルートの方が現実的でした

日本軍が日本を包囲する連合軍の弱い環であるオーストラリアの脱落を狙ってくるのも定石であり、両軍の間の戦力の真空地帯であるニューギニア・ソロモン諸島が激突の戦場になる事は自明の理だったのです






( ・ω・) 「相変わらず長い前置きですが、そこで戦わなければならない理由を理解してないと“この人達何やってんの?”になってしまうので、説明しとかない訳にはいかないのです

そして何とも迂遠なことに前置きはもう1つ続くのです」