『1941』という映画があります
かのスピルバーグが監督した映画で、彼の出世作『ジョーズ』『未知との遭遇』の後に制作されたものの興行的には失敗作と考えられています
一種のパニックコメディとでもいう作品で、真珠湾攻撃直後のアメリカ西海岸で「次にここが攻撃される」恐慌状態に陥る住民や兵士たち、そして実際に攻撃に来た日本軍潜水艦の姿をコミカルに描きつつ風刺しています
実はこれフィクションではなく、実際に開戦直後に行われた日本の潜水艦による西海岸での通商破壊戦をモチーフにしています
日本潜水艦の特徴とも言える水上偵察機を運用できる、航続距離の長い大型潜水艦を敵本土の目と鼻の先に派遣して軍艦や軍事施設よりも貨物船や製油所などを叩き、経済に打撃を与える事で戦争継続を困難にしようという作戦です
零式小型水上機
当初はこのような小型の偵察機を1機しか搭載出来ませんでしたが、後には本格的な水上攻撃機『晴嵐』を3機も搭載できる当時としては超大型の潜水艦『伊400型』みたいな物まで造ってしまうのでした

「伊400型潜水艦二番艦、伊401です。
地球をぐるっと一周以上余裕で航行できる長大な航続力と、特殊攻撃機「晴嵐」を3機搭載する潜水空母なんです。
そう、戦略的秘密兵器…秘密なんだからっ!」
ちなみに当然ですが、この当時はまだ超重力砲は装備されていません
それはともかく、日本海軍の元々の戦略思想は敵主力艦隊がはるばる日本近海まで来襲したところを決戦で叩くという、日露戦争の日本海海戦を再現する事でした
しかし第1次世界大戦後のワシントン海軍軍縮会議で国毎の主力艦保有量を対英米の6割に抑えられてしまった事から、決戦での不利が免れないとした日本海軍は遠征してくる敵主力艦隊をその途上で次々と襲撃をかけて消耗させる『漸減邀撃作戦』を基本戦略とします
まず敵本土近海に潜水艦を貼りつけて敵艦隊の動向を探り、昼間は空母艦載機で空襲を仕掛け、夜は軽巡洋艦を旗艦とし駆逐艦多数からなる水雷戦隊で夜襲を掛け、1隻でも2隻でも減らして主力同士での決戦時の戦力差を少しでも縮めようと考えたのです
最初の画像にある巡潜乙型はこの偵察任務の為に造られていました
開戦時、西海岸に派遣されていた9隻(10隻という説も)の日本潜水艦は通商破壊戦を仕掛け、規模としては小さかったものの心理的に大きな影響を与える事に成功します
実際に海岸線から沖合数kmのところで貨物船が雷撃を受けて沈められる様を沿岸住民が目撃したり、オレゴン山中に山火事を発生させるなど、映画で語られるような一種の恐慌状態すら起きかけていたとも言います(友軍機、もしくは幻の敵機を目撃し、対空射撃を始める部隊すらあった)
また日本軍の攻撃に呼応するように、東海岸でもドイツ軍の潜水艦『Uボート』が通商破壊戦を仕掛けており、この時期(1941年末~1942年2月頃)のアメリカ政府・社会は深刻な危機を憶えていたと言われています
アメリカは「次は西海岸に日本軍が上陸してくる」と本気で想定していて、西海岸諸都市の喪失は避けられないものとしてロッキー山脈に防衛線を布いて戦うことを考えたそうです
この事がアメリカの日系移民の強制収容に繋がるのでした
日本軍が上陸してきた時に、帰属意識の高い日系移民が祖国の軍隊に協力して破壊工作を行うのではと怖れた結果、米国籍を持つ日系人も含めた12万人を超える人々が長い収容所生活を余儀なくされるのでした(また米国への忠誠の証を強制され、442連隊戦闘団のような苛酷な戦場に送られる事になる)
また日系人への弾圧はアメリカの要求により中南米諸国にもおよび、さらに多くの日系人移民が強制収容や追放などを受けるのでした(アルゼンチンだけは戦争末期までこの圧力に抗い続けた。日露戦争時にアルゼンチンがイタリアに発注していた戦艦2隻を日本に譲ってくれる等日本とアルゼンチンの友好関係は実は古い)
また開戦から続くアメリカの敗勢による厭戦気分の醸成を怖れたルーズベルト政権は、目に見える形での勝利(要は戦略的に効果は無くても景気づけになるような)を軍に要求します
それが前記事のドーリットル爆撃でした
実際に大した被害は与えられなかったのですが、これまた心理的な効果は絶大でした
日本海軍は緒戦の勝利が一段落した1942年春先から第二段作戦として米豪遮断を試みるFS作戦を考えていたのですが、本土空襲をやられてしまった聯合艦隊司令長官山本五十六はこのような攻撃を受けない様に米海軍が太平洋に展開する為の拠点であるハワイの陥落を目指し、その前段階としてミッドウェイ島の攻略を訴えたのです
さらにミッドウェイ攻略の陽動としてアメリカ本土と目と鼻の先にあるアリューシャン列島に上陸、敵戦力を分散・吸引する作戦も同時に行う事を求めます
一方海軍の最高司令部である軍令部は南方資源地帯とのシーレーンを脅かされない為に、フィリピンの米軍、マレー半島の英軍、インドネシアの現地蘭軍(本国オランダは既にドイツに降伏しているが、植民地の現地政庁や軍はこれを認めておらず連合軍に参加していた)を緒戦において排除していました
しかしここに築いたシーレーンを確保する為にはインドに引っ込んだ英海軍東洋艦隊と、ハワイやミッドウェイから展開、さらに南方のフィジー・サモア(共に19世紀末から英米の植民地)から反攻作戦を行うだろう米軍の脅威も取り除いておく必要がありました
本来なら海軍の総力を挙げてどちらか一方に絞って行うべき作戦が、日露戦争の日本海海戦で奇跡の完勝を遂げ、今またバクチのように思われた真珠湾攻撃を成功させた聯合艦隊司令部という本来なら戦時における臨時の現場組織(日露戦争後に常設されていた)がアンタッチャブルな存在になり、統帥権にすら影響を与えうる存在になってしまっていたのです
結局ミッドウェイ・ハワイ攻略の後にフィジー・サモアも叩くという玉虫色の決着となり、ミッドウェイ作戦は強行、空母4隻を失う大敗北となるのでした(陽動のアリューシャン作戦は成功するものの、敵戦力の吸引は出来ずにこちらも実質的には失敗となり後にアッツ島玉砕の悲劇を生む事になる)
これによりフィジー・サモアを叩くFS作戦は中止になってしまいます
元々この作戦は工業力が低く、戦争継続に必要な物資をアメリカからの供給に頼るオーストラリアをそのシーレーンを破壊する事で孤立させ、連合国から脱落させる事も目的とされていました
広すぎる太平洋は途中で補給ができる拠点もなく横断して直接進攻するのは困難で、米軍は中部太平洋をハワイ→ウェアク→グアム→サイパンと進攻するルートと、サモア→ニューギニア→インドネシア→フィリピンと島伝いに進攻するルートの2つを想定していました
開戦前後から大々的に建造を始めていた新型戦艦や空母群が戦力化するのが1943年秋頃なのは日米両者に共通する認識であり、それまで何もできない中部太平洋ルートより、現有戦力を使いつつ南方の島伝いに転戦していくルートの方が現実的でした
日本軍が日本を包囲する連合軍の弱い環であるオーストラリアの脱落を狙ってくるのも定石であり、両軍の間の戦力の真空地帯であるニューギニア・ソロモン諸島が激突の戦場になる事は自明の理だったのです
( ・ω・) 「相変わらず長い前置きですが、そこで戦わなければならない理由を理解してないと“この人達何やってんの?”になってしまうので、説明しとかない訳にはいかないのです
そして何とも迂遠なことに前置きはもう1つ続くのです」