鉄底海峡 その2 第2次ソロモン海戦 | Dream Box

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このブログの内容は5割の誤解と4割の勘違い、2割の嘘で成り立っています

1941年5月のミッドウェイ海戦で4隻の空母を失った日本は劣勢に立たされた、みたいな事をよく聞きますが、実際はどうだったのかというと、

 米海軍

正規空母

・サラトガ
・エンタープライズ
・ホーネット
※ワスプ
※レンジャー

喪失:レキシントン(珊瑚海海戦で戦没)、ヨークタウン(ミッドウェイ海戦で戦没)

開戦時、米海軍が保有していた8隻の空母の内で最も古い『ラングレー』は戦力とは言えず、中型の『ワスプ』と『レンジャー』は大西洋で運用されていました

しかしミッドウェイ海戦までに『レキシントン』『ヨークタウン』が戦没すると、急遽ワスプを太平洋に回航しソロモン海での戦闘が始まる頃には4隻の正規空母が使えるようになっていました

護衛空母

・ロングアイランド
※アベンジャー級
  アベンジャー
  チャージャー
  ダッシャー
  バイター

米海軍が本格的に小型の補助空母(対潜・輸送用途)の建造にとりかかったのは1941年のボーグ級からであり、その1番艦が就役したのは翌42年1月からでした

それまでのロングアイランド級・アベンジャー級は商船から改造された物で、アベンジャー級はUボートの脅威に悩むイギリスに貸与されて太平洋には運用されていませんでした(太平洋でアベンジャー級の次の型であるボーグ級の運用が始まったのは1943年以降)
  
米海軍最初の護衛空母であるロングアイランドは珊瑚海海戦の時期に太平洋に回航され、ミッドウェイ海戦では裏方ながら戦勝に貢献、この第2次ソロモン海戦の最中にも貴重な航空戦力をヘンダーソン飛行場に運ぶ事に成功します(尤も空母として運用出来る能力はないので、この任務を最後に米本土に回航されパイロット養成の訓練任務に従事して戦争を終える)

これに対し日本海軍は、

 日本海軍

正規空母

・翔鶴
・瑞鶴

喪失:赤城、加賀、蒼龍、飛龍(全てミッドウェイ海戦で戦没)

軽空母

・龍驤
・瑞鳳(元給油船『高崎』)
・飛鷹(元客船『出雲丸』1942年7月に軽空母に改装)
・隼鷹(元客船『橿原丸』1942年5月に軽空母として完成)
※龍鳳(元潜水母艦『大鯨』1942年11月に軽空母に改装)
※千歳(水上機母艦、1943年8月に軽空母に改装)
※千代田(水上機母艦、1943年11月に軽空母に改装)
※鳳翔(古すぎ、かつ小型すぎて戦力とは言えず)

祥鳳(元給油艦『剣崎』珊瑚海海戦で戦没)

と、正規空母の数では半分程だったものの、軍縮条約で空母の保有量も制限されていた事から容易に軽空母に改装可能な設計の雑役艦や客船に海軍から予算を援助して作らせておき、軍縮条約からの離脱や開戦と共に改装を始めていた為、ミッドウェイ海戦の敗北から短時日の内に数隻の補助戦力を用意する事が出来ていました

龍驤は元から軽空母として造られた唯一の存在でしたが、軍縮条約の対象外である排水量1万㌧未満で造ろうとして大変な事になってしまった艦でした





龍驤の画像を見る度にこういうのを思い出します


「軽空母だけど、結構歴戦の空母なんよ、うち。
ああ、あの岩手沖での第四艦隊事件のこと?あれはきつかったー
波浪で艦橋圧壊…いや、ホントありえへん」












第四艦隊事件とは1935年(昭和10年)に岩手県沖で演習中だった第四艦隊が台風に遭遇し、その波浪により駆逐艦の船体が破断したり、大型艦でも艦橋の大破や船体の歪みが生じてしまい産科艦艇の約半分が損傷を負い、殉職者54名を出した事件を指します

ワシントン・ロンドン両軍縮条約による保有数比率の不利を補うべく、小型化した船体に世界標準の1.5倍以上にも達する重武装を詰め込んだ設計の無理が祟ったものとされており、スペック至上主義が『多少』見直されるきっかけとなりました

日本海軍はこの事件により、戦闘に耐えられる様に造られた軍艦は意外にも荒天などの自然現象に弱いという教訓を得ますが、米海軍も第2次大戦中に2度にわたって台風(コブラ台風他)に突っ込んだハルゼー提督の艦隊が大きな損傷を出しており、一時はハルゼーの更迭が話し合われたほどでした(更迭されなかったのは良くも悪くも有名人であるハルゼーの更迭により、対日戦勝利の功績が陸軍のマッカーサーに集中する事を嫌った為と言われる)

なお、軽空母と連呼しているものの、実は日本海軍の艦種類別に『軽空母』というカテゴリはありません

あるのは最初から空母として造った『正規空母』(サイズ関係なし。なので最初から空母として設計建造された龍驤は正式には軽空母ではなく正規空母になる)

海軍保有の艦船から空母に改造した『改装空母』

民間の船などから空母に改造した『特設空母』(と言っても飛鷹・隼鷹は有事に徴用する事を見越して建造費用の補助が出ていた)

外国でもその区分は結構曖昧で、何が『正規空母』で何が『軽空母・護衛空母』という明確な基準は特にありません

現代ではさらに曖昧で



このひゅうが型2番艦『いせ』がヘリ搭載型護衛艦・DDH-182として『駆逐艦』にカテゴライズされてしまったりするのです(DDはdestroyerの略の駆逐艦を現わす記号で、Hはヘリ搭載型を意味する)

なので、ひゅうが型より遥かに大きくても

( ・ω・) 「いずも型は駆逐艦、いいね?」



もっともこれは現代の軍艦の区分は『空母』『護衛艦』『潜水艦』『その他支援・雑役艦』しか意味がなく、空母以外の水上戦闘艦は全て対潜・対空に特化した『護衛艦』に含まれてしまうからなのです




第1次ソロモン海戦(1942年8月8~9日)の時点で日米両軍が保有する空母の数は上記の通りであり、米空母の数と搭載機数の多さを考えれば米側の有利は否定できません

一方で戦艦の数は日本海軍の金剛型4隻・長門型2隻・大和型1隻(武蔵は訓練中でこの時期には戦力化していない)に対し、米海軍は旧式戦艦群が真珠湾攻撃で受けた損傷から復旧しておらず、新型戦艦のノースカロライナ1隻しか使えない状況でした

巡洋艦以下は似た様なもので、この戦力比を見ればミッドウェイで4隻の空母を失った日本が未だ不利とは言えなかったのが分かります

攻勢が取れなくなったという意味では不利になったというのは事実ですが、そんな事を言ったら最初からこの戦争に勝機はあったのかと云う話になってしまいます


第1次ソロモン海戦を勝利と言って良いのか微妙ですが(護衛艦隊に一撃を加えたのみで上陸部隊やその補給物資を積んだ輸送船団を攻撃せず引き返している)、この海戦の後に日本軍が次のアクションを起こしたのは10日も後の事になります(潜水艦や駆逐艦の小規模な艦砲射撃は度々あった)

ミッドウェイ攻略の上陸部隊として用意され、作戦の中止により宙に浮いたまま待機中だった一木支隊の一部約900人が先遣隊として駆逐艦6隻(第4駆逐隊 嵐、萩風、浦風、谷風、浜風、陽炎。駆逐隊司令は沖縄特攻時の大和艦長となる有賀幸作大佐)により運ばれ、18日2300時にヘンダーソン飛行場(日本名ルンガ飛行場)の東約30Kmのタイポ岬へ無血上陸に成功します

これに先立つ16日にも海軍の横須賀第5特別陸戦隊の先遣部隊(高橋中隊)約130人も神風型駆逐艦『追手』によりタサファロング付近から上陸、飛行場を捨て後退していた設営隊の生き残りとマタニカウ川付近で合流しています


その後、一木支隊先遣隊を運んだ第4駆逐隊は、前記事の陸路ポートモレスビー攻略を始めた陸軍が発見したニューギニア島東端に近いラビに建設された飛行場を叩くべく海軍陸戦隊約1960人を載せた輸送船団の護衛にあたります(陽炎はガダルカナル島周辺に監視として残し、上陸作戦で空襲を受けて損傷した荻風に嵐をつけてトラックヘ戻し、浦風・谷風・浜風の3隻が護衛にあたった)



ラビに建設された飛行場(この時建設された3つの飛行場の1つが現ガーニー空港)が活動を開始するとソロモン海一帯の制空権を失う恐れがあった事から海軍は陸軍にラビ攻略を打診しますが、ニューギニア島は陸軍の担当地域ではあってもポートモレスビー攻略に加えガダルカナル島でも戦闘を抱える事になった陸軍に余裕はなくこれを断っていました

ならばと海軍は自前の陸戦隊でラビ攻略を果たすべく、2000弱の兵力を編成しブナにも30機の航空部隊を配し、第18戦隊の軽巡洋艦の天龍・龍田に第4駆逐隊等の駆逐艦5隻を加えた戦力で8月21日から攻略作戦が開始されていました

しかし敵兵力の見積もりが甘く、せいぜい3個中隊3~400人程度と見ていた敵守備隊の兵力が2個旅団9000人にも達していたのでした

25日夜に上陸を果たすものの当初予定した地点から10kmも東に上陸してしまい、不案内な地理に苦労している中にオーストラリア軍主体の敵部隊に先制攻撃を掛けられ揚陸物資を失う始末となります

砲撃で援護しようとした軽巡天龍と駆逐艦2隻が湾内に突入するも、通信機を失っていた上陸部隊と連絡が取れず攻撃が行えず(というか行方不明になった。彼らは後に発見され生き残っていた兵員は撤収する事が出来た)、ブナの航空部隊も悪天候から有効な攻撃が行えずに却って損失を出していました

見かねた陸軍も青葉支隊を派遣しようと考えますが、ガダルカナル島の戦いの方が熾烈を極めており青葉支隊はそちらに投入される事になったのでした

結局この『ラビの戦い』は10月24日に日本軍が撤退するまで終始劣勢に立たされ(戦力差が4倍以上なのだから当然)、貴重な陸戦隊兵力を失う事となったのでした


一方のガダルカナル島

8月19日には一木支隊の残余約2500人を運ぶべく第二水雷戦隊の護衛を受けてトラック島を出発していました

ガダルカナルに上陸した米軍兵力はこの時点で約1万人、さらに6000人余りの予備兵力も用意されていた事を考えると明らかに少なすぎる増援です

その理由は前記事でも紹介しましたが、

・米軍の目的は飛行場の破壊であって恒久的な占拠だとは考えていなかった事(駐ソ連大使館からの情報もそれを裏付けていた)

・その為、上陸した敵部隊はせいぜい2~3000人程度の規模だと誤認していた

・敵上陸当初に行われたラバウルからの航空攻撃の戦果が過大に申告され(輸送船10隻撃破、実際には1隻だった)攻撃意図を挫き、撤退の方法に苦心していると判断していた

これにより第1次ソロモン海戦でこの水域に突入した三川提督の第8艦隊も護衛部隊に損害を与えただけで、上陸船団には攻撃を掛けずに撤退していたのでした



一木支隊もこの誤情報に基づいて本隊の上陸を待たずに西進し奪われたルンガ飛行場の奪還を目指しますが、21日のイル川の戦いで最初の接触からほぼ瞬殺の態で撃破・蹂躙され、一木大佐もいつどこで戦死したのか不明になるほど一方的に叩かれて終わります



ただ米軍側も第1次ソロモン海戦の敗北により物資の揚陸を中途で切り上げ後退していた為弾薬や食料不足に陥っていましたが(上陸後からラバウルから飛来していた零戦を空母から発進したものと考え、近海に有力な敵空母機動部隊がいると思ってしまった)

14日には日本軍の空襲の間隙を衝いて駆逐艦3隻による補給物資の揚陸が行われ状況は多少改善されていました


飛行場を放棄して撤退した日本軍の設営隊&防衛隊の生き残りは8日に飛行場から約10km西のマタニカウ川付近で再集結します

陣地を構築し奪還の機を狙っていましたが撤退の際食糧や重火器等の装備を持ち出す事が出来ずこの時点で僅かに7日分の食糧しか確保できていませんでした


上陸部隊の海兵隊第1師団のバンデクリフト少将はこれを脅威に感じ、3個中隊を出して攻撃を図りますが19日に行われた小規模な戦闘で日本軍に撃退されています

この時点ではお互いに物資の余裕が無く、追撃する事が出来ずに互いの拠点を確保することに終始しています

20日にはヘンダーソン飛行場と名を変えたこの拠点に戦闘機・攻撃機の先遣隊30機が到着しており、劣悪な環境の下で活動を開始していました

この時点でルンガ飛行場の再奪取はほぼ不可能な状況になったと言えます


( ・ω・) 「それどころか、ガダルカナルの前線飛行場から制空権を確保して、米号遮断のシーレーン破壊を行う戦略自体が破綻した事をも意味します」


この事実が認識できていれば、この先5ヶ月間に亘る“ほぼ無意味な”戦闘とそれによる消耗を回避できたでのではないでしょうか

19日、ガダルカナル島周辺に残された駆逐艦陽炎と任務を交代すべく、駆逐艦江風(かわかぜ)がこの海域に入ります

21日夕方から一木支隊の飛行場奪還を期した攻撃が始まっており(イル川の戦い)、これに呼応したのか22日夜陰に紛れてルンガ岬沖まで単艦侵入した江風は敵駆逐艦3隻と遭遇、1隻を沈める戦果をあげます

「白露型駆逐艦九番艦、改白露型の江風だよ。よろしくな!あ、読み方、間違えンなよ。」

















ちなみにこの江風さん



劇画原作者・作詞家の小池一夫先生の琴線に触れたらしく、79歳の御大をネトゲの世界に引きずり込む事に成功しています(先生の文章の特徴である『ン』の部分に反応したらしい)

運営もその事実に気付いたらしくこんな計らいを


                        ゲーム中の不具合への詫び掛け軸



第2次ソロモン海戦はこの一木支隊の本隊を運び、また米軍のガダルカナル攻略を支援する敵艦隊の殲滅を期した戦闘でした



この海戦は5月に行われた珊瑚海海戦と状況がよく似ていました

日本軍は『翔鶴』『瑞鶴』の正規空母2隻と『龍驤』の軽空母、これにガダルカナル島への上陸を目指す一木支隊の残余を運ぶ輸送船団とこの護衛を任された第2水雷戦隊

米軍はこの妨害を目指して『エンタープライズ』『サラトガ』『ワスプ』の3隻の正規空母を投入していましたが、8月23日に出撃させた攻撃隊は日本艦隊を発見できずに引き返し、燃料補給の為ワスプを切り離して避退させていました

日本軍も翌24日に南雲機動部隊(第3艦隊)から龍驤を切り離して、25日に予定された上陸作戦のためにガダルカナル島への攻撃を行わせようとします

結果としてこの戦力分散が仇となり、龍驤はエンタープライズ・サラトガ攻撃隊の集中攻撃を浴びて撃沈させられます(珊瑚海海戦の祥鳳も似たような経緯で沈んでいる)

一方この龍驤が囮となり敵の攻撃を引き付ける間に、翔鶴・瑞鶴の攻撃隊がエンタープライズに3発の爆弾を命中させる事になるのでした

この南雲提督の第3艦隊には30ノットの高速を誇り空母部隊にも追随できる戦艦『比叡』『霧島』が帯同していました(他重巡3隻・軽巡1隻・駆逐艦11隻。分派した空母龍驤の護衛にも重巡1・駆逐2が付けられていた)

また“別働隊”として第2艦隊の戦艦『陸奥』を始め重巡5隻・軽巡1隻・駆逐艦8隻(陸奥は本来長門と共に第1戦隊を構成すべき主力艦だったが、大和・武蔵が竣工したのに合わせ、『傷付けても構わない』第2戦隊へと鞍替えされていた)

更に一木支隊本隊2500人を乗せる輸送艦3隻とその護衛として第2水雷戦隊の軽巡1・駆逐艦10隻が用意されていました

合計すると、正規空母2・軽空母1・戦艦3・重巡9・軽巡3・駆逐艦31・水上機母艦1と、今や海戦の主兵は空母になったとは言え、大艦隊と言って良い陣容です


これに対し米軍の戦力は全体として第61任務部隊が3つの任務群から構成されており、それぞれが空母1と護衛部隊からなり、合わせて空母3・戦艦1・重巡5・軽巡2・駆逐艦16とこちらもかなりの大戦力でした

ミッドウェイに続き、現状ではなけなしの戦力を惜しみもなく投入している訳で、ミッドウェイで奪取した戦争の主導権を手放す気はないという強い意志が感じられます

搭載機数で見ると日本空母3隻で約180機に対し、米空母は3隻で240機にもなりますが緒戦でワスプを離脱させているので艦載機では互角と言えますが、空母以外の戦力ではおよそ倍以上の差があり日本軍が勝って当たり前の戦力差に思えます

しかし、負けました

日本軍は空母龍驤と駆逐艦1を失い、軽巡1・水上機母艦1を中破させられたのに対し、

米軍の目立った損害は3発の爆弾が命中した空母エンタープライズが中破したのみで済んでいます

というか、これだけの大艦隊同士の海戦の割に両者の損害の少なさが目立ちます

その理由として考えられるのが、日本軍が珊瑚海海戦と同じミスを冒したからだと言えるでしょう

日本艦隊の陣容は全体としては大艦隊と言える物でしたが、第2艦隊・第3艦隊間の連携が取れておらず、上級司令部を置かなかった事が敗因といえるでしょう(珊瑚海海戦でも翔鶴・瑞鶴のMO機動部隊と軽空母祥鳳のMO攻略部隊が別々に行動していた為、祥鳳が先に発見されて沈められ、作戦中止の原因となった)

この作戦の目的がガダルカナルへの陸上部隊の輸送と上陸支援であり、その意味では龍驤を分派してヘンダーソン飛行場を叩き上陸の地ならしをすると言うのは分からない判断ではありません

米軍側はこの龍驤を発見し空母から攻撃隊を送ってこれを沈めますが、この時まで日本軍の本隊である2隻の空母(翔鶴・瑞鶴)に気付いておらず、この間隙を突かれてエンタープライズは被害を受けてしまうのでした(珊瑚海では同じような形でレキシントンを沈められ、ヨークタウンを中破に追い込まれた)

3発の爆弾が命中したエンタープライズが中破で済んだのは米海軍のダメージコントロール能力の高さとよく言われますが、これについては単に運が良かっただけでしょう(普通は飛行甲板が装甲化されていない空母が3発喰らえば、それで致命傷になります)

ではその間別働隊だった第2艦隊と第2水雷戦隊は何をしていたかと言うと、ほぼ何もできなかったのです(但し輸送船団の護衛部隊である2水戦は相手から直接攻撃を受けない限り戦闘参加する必要はない)

南雲提督の第3艦隊は敵艦隊を発見し戦闘に入りましたが、この時に第2艦隊にその旨の連絡をしておらず、近藤提督の第2艦隊は敵の動向はおろか味方の第3艦隊が何をやってるのかも分からずにいたのでした

第2艦隊は、第3艦隊の交信を傍受して戦闘が始まったらしい事を察知、その内容から敵艦隊の位置を推測して独自の行動に移りますが、高速の重巡部隊に戦艦陸奥が追随できずに脱落してしまう有様でした(海戦後、陸奥は第2戦隊から外される)



一方の米軍は3隻の空母がそれぞれに任務群を編成していましたが、全体としては第61任務部隊として上級指揮官のフレッチャー提督の一元的な指揮下にあった為、こうしたお粗末な混乱とは無縁でした

日本軍の場合、第3艦隊の南雲中将と第2艦隊の近藤中将は階級上は同格でしたが、先任の近藤が両艦隊の総合的な指揮をとるのがこうした場合の慣習となっていました

しかし戦闘の主兵は空母機動部隊であり、別行動をとる水上打撃部隊編成の第2艦隊指揮官である近藤が、旗艦である重巡『愛宕』から空母機動部隊に指示を出すなど出来る訳がありませんでした


普通に考えるなら『主力』である空母機動部隊指揮官の南雲が航空戦の指揮を執りつつ、第2艦隊に敵艦隊の位置を示して「突撃せよ」と敵艦隊のおよその方位と距離と共に指示を出せば、後は第2艦隊司令官の好きな様に攻撃参加ができた筈でしたが、序列の上で下位にある南雲が上位者である近藤に『命令』を出す事が出来なかった可能性があります

日本人の組織にありがちな序列意識(と、組織を作っただけで満足してしまう官僚体質)が欠点となって現れた形でした

ならば2人の提督のより上位者が艦隊に帯同して一元的な指揮を執れば良かった筈です

つまり聯合艦隊司令長官である山本五十六“大将”が2人の中将を指揮すれば良かったのですが、この時期の山本は8月17日に大和と共に日本を出発しトラック諸島へ向かう途上にあったのでした(トラック到着は28日)

結局のところ、この人事上の欠陥を解決しないままこの作戦が発動された原因は、海軍の組織運営上の失敗だったと言えるのではないでしょうか(恐ろしい事にこの問題は戦争が終わるまで解決されなかった)



この海戦の後の8月31日、周辺海域で哨戒中の『空母サラトガ』を潜水艦『伊26』が雷撃で中破させ、さらに9月15日には『伊19』が『空母ワスプ』を撃沈する大戦果を挙げ、太平洋戦線における米海軍の可動空母を『ホーネット』1隻に追い込み一時的にではありましたが戦力バランスを拮抗させます

「潜水艦の伊一九よ。
うん、イク、正規空母ワスプを自慢の酸素魚雷で仕留めたの。
さらにずっーと先を航行していた戦艦や駆逐艦にも命中したの。
海のスナイパー、イクさんの活躍、ずーっと覚えていてなの・・・ね」














「呉生まれの伊号だよ!
ねえねえ、あたしのことも覚えていてね!
通商破壊戦はもちろん、巡洋艦や空母だって食っちゃうから!
まかせておいて!」

















10月下旬に行われた南太平洋海戦において修理の為った『空母エンタープライズ』と共にホーネットが参加しますが、この海戦でホーネットが沈められ母艦を失った艦載機を収容したエンタープライズは発着艦不能な状態となり戦場を離脱、瞬間的にではありましたがソロモン海域における米海軍の可動空母はゼロになってしまうのでした


米軍もまた楽な戦いをしていた訳ではなかったのです





( ・ω・) 「書きすぎた感が凄いのでその内推敲するかもです」