ひい…ん…
甲高い、にも関わらずどこかのんびりした響きがつむじの上に落ちてくる。思わず振り仰げば、霞んだうす青を押し分けながらどこかの空を目指して舞い上がっていく白い飛行機。視界の底には花色の海がとろりと凪いでいる。
すこし目を細めた拍子に、小さな呟きが耳をかすめた。
「…べ」
え、と視線を戻すと、すぐ前にいた人物が半分だけ振り返る。聞き取れなかったことに気づいたのだろう、独特のイントネーションがもう一度繰り返してくれた。
「日本は、空気がやわらけえべ」
ノルウェーさんは、自分こそやわらかい表情でほんのりと微笑む。私は寸の間だけれどなぜか口ごもり、つかえそうになる胸を軽く撫で下ろした。
「お気に召して戴いたなら、大変光栄です」
日ごろ、この新来の客人の表情が動くところをあまり見ない。緩い風をたのしむように目を細めるさまを見上げ、こんな表情もするんだと心がほんのり温まる気分で応じた。うん、きっとそのせいですね。
一人で納得しているところへ、背後から別の声が割り込む。
「まるで日本みてエだろい?」
トルコさんの伝法な口調には、どうしてだろう、いくつもの色合いが複雑に混入していた。なにか自慢げな、なにか抑圧的な、あるいはなつかしげな、もしかするとかすかに苛立たしげな。
まだ、ノルウェーさんに対して警戒心を持ったままなんですかね…
困ったなあと視線を泳がせると、今度はギリシャさんと目が合う。
「日本は…日本、だから」
世界のムキムキその2さんが、ふわりと微笑んだ。余人が聞けば奇妙な発言内容に思うことだろう。というか、何やら気恥ずかしいことを言われたような。
どういう意味ですかと尋ねては薮蛇になりそうなので、急いで視線を逸らす。その先でノルウェーさんがこちらを見ていた。見つめていた。しみじみと。
「ああ…」
ひとつ頷いて、彼はとんでもないことを言った。
「だから、ここにいるだけで幸せで泣きそうになっちまうんだべ」
悲鳴を上げて卒倒するのを堪えるのは、なかなかに大変だった…なんですか、なんですかこのひと!!ノルウェイジャンクオリティ恐るべしですよ!!?
「粗茶ですが」
上機嫌のノルウェーさん、ちょっとブスくれ気味のトルコさん、飄々とした中にそこはかとない不機嫌を潜めたギリシャさん。
バランスの取りづらい3人を引き連れて我が家に戻ると、まずはお茶の支度をした。ウキウキと気分が弾むのは、ノルウェーさんの下さった手土産のおかげ。なんと塩漬けのノルウェーサーモンですよ。おおおお。
いえ勿論、トルコさんやギリシャさんが下さったお菓子も嬉しかったですよ?さっそくこうしてお茶受けにお出しできますしね。ただその、ノルウェーさんがあまりにもツボを突いて下さったのでつい、こう。ねえ。検疫のお手間だってあったのではと思うのに、ありがたいことです。はい、ノルウェーさん、素晴らしい方ですね。
「…なしてだ?」
心ひそかに拳を握っている私に、深い深い海の底を思わせる瞳が向けられた。
「はい?」
何か疑問がおありのようです。尋ね返すと、ノルウェーさんは手にした湯飲みに目を落として少し首を傾げた。
「ソチャ、つうなば、良ぐねえ茶、だべ?」
「あー…」
そう、来ましたか。うん、まあよくある疑問ですね。そんなものを客に出すのかって仰る向きも確かにあります。
どう答えようか考えながら、とりあえず曖昧に笑ってみようとする。日本を知りたいと仰っていたのだから、こういうこともきちんと説明して差し上げるのがいいだろう。
そんなことを考えているうち、先にノルウェーさんの言葉が続いた。
「だども、おめが客にほんたらものどご出すとは思えね。実際、これはええ茶なんだべ?」
軽く揺すられた湯のみの中から、うすい湯気と爽やかな香りが立ち上る。勿論、それはグラムうん千円の高級茶葉だけれど、そうと頷くのもしづらいのが日本人というもので、ちょっと困ってしまった。
すると、横からすす、と軽やかにお茶を啜る音が聞こえる。早くもお菓子を食べ終えたトルコさんは満足げな息を吐き、自分の湯飲みを卓に戻しながらひとつ頷いた。
「そりゃあ、そうでえ」
「え…」
「日本がひとをもてなすのに、変なもの出すなんざ有り得ねえって話だよ。とは言え、まあなあ、お前えさんが疑問に思うのも尤もだ。日本の謙譲って奴ア、慣れねえと理解しづれえだろうからなあ」
「ケンジョウ」
普段どおり、あまり表情のないノルウェーさんがほつりと繰り返す。
「おうよ。そいつはな、自分が下がることで相手を上げてみせるっつー心遣いのことでい。」
にっかり笑うトルコさんに、少し驚いた。いまどきわが国民の方々だってうっかりすればわかっていないかもいないそんな概念を、もっと馴染みのないはずの彼が理解しているのか…と思いかけ、じきに思い直す。そういえば、彼は理解しようとしてくれる人だった。
更に驚いたことに、
「それは…ちょっと、わかる」
トルコさんの隣に、でも微妙に距離をとって座るギリシャさんまでが頷いている。
「日本は、ひとを大事にする。しすぎる、くらい」
あわわわわ。な、なんですか一体。そんなお顔は反則ですよ。なんというか、せつなげな、それこそ大事そうな…ああもう、ジジイはライフをガンガン削られっぱなしです。
焦っている私をよそに、
「だよなー」
と珍しく隣国青年に同意して、トルコさんはふんと腰に両拳を当てた。
「するってえと、どういうことになるか」
さて問題です、とばかりにノルウェーさんに視線を飛ばす。
「…省略されてんだべ」
北の国の化身は、無駄がないというのか短い言葉をぽんと返した。トルコさんが何やら複雑な顔をする。
「おめえさんも、たいがい省略がきつくねいかい」
「…」
「まあたぶん、間違えちゃいねえんだろうけどな」
もごもご呟きながら仮面の位置を直す仕草をして、彼は今度は私の方を見た。
「あ」
「“あなたにくらべれば”」
口を開いたところへ、ギリシャさんの声がかぶさる。
「あ、てめギリシャ。俺が言おうと思ってたのに横取りしやアがって」
「髭づら、うるさい。俺の方が、日本のことわかってる」
「ああん?んなわけがあるけい、俺の方がわかってるに決まってんだろーが」
「ちょ、ちょっとお二人とも」
ここまでどうにか大人しかったのに、結局言い合いが始まるのかと慌てて制止の声を投げると、どこまでも飄々とした声が割り込んだ。
「つまりソチャっつうのは、おめさの価値に比べりゃよくもねえ茶だ、おめさの方がずっと価値があるっつうて意味だべな?」
ノルウェーさんは淡々と言う。でも、声の底にほんの僅か関心するような喜ぶような響きを感じた。
「おめさがでえじだっつうてんだべ」
「うっ…」
まっすぐに言われて、私は少々怯んでしまった。いやまあ、そう言って間違いというわけではないと思う。思うけれどしかし。なんというか。照れくさいです…
「日本?」
思わず視線を逸らしてしまった私を、深藍の瞳が覗き込んで来る。答えを求められていることはわかっているから、何とか答えようと口を開いた。
「あ、ええ、まあ、その…そんな感じ、でしょうか」
「なんで疑問なんだべ」
ううっ。ノルウェーさんの追及がキビシイ。日本文化への理解を真摯に求めておいでなのだろう。まあ今回、大陸的感覚を持ちながら、いつの間にかずいぶん我が国を理解してくださってるお二方も一緒だから、それは彼の助けになるに違いない。現に今のように。
うんそうですよねそれはよいことです文化交流バンザイ。
ノーブレスで考えて、私は話を変える。
「まあその辺はお察し願うとして…時に、明日のお花見ですが。お弁当の中身、リクエストありますか?」
「おお!」
トルコさんが嬉しげな声を上げ、ギリシャさんがふくりと笑う。ノルウェーさんはと言えば、もう一度不思議そうに首を傾げた。
「オベントー?」
今度の質問はまだ答えやすい。ざっと説明すると、ノルウェーさんは日本の手料理が食えるべか、と息を吸う。澄んだ瞳が輝くさまは、とても、ほほえましかった。
他のお二人が相変わらず複雑そうな顔をしている理由は、私にはよくわからなかったけれど。
