その1 2000年8月 の恩人たち
その2 2000年8月 の恩人たち 高知県三原村にて
その3 2000年8月 の恩人たち 三坂峠の長五郎さん

行程中、お世話になった方はたくさんいる。情報をくれたりお接待をして頂いたり。
今思いつくだけでも以下のようなものがある。

■情報など
・小学生がみんな挨拶してくれた。
・ある小学生は「はみ」の追い払い方を教えてくれた。マムシのことだそうだ。
・逆打ちなので順打ちの人たちと情報交換できた。
・順打ちの自転車遍路さんが「もう使わないから」とそこまでの行程をプリントアウトした地図を下さった。これがすごく助かった。
・高知のある宿で「68歳からの歩き遍路」というタイトルだったかの本を頂いた。
・焼山寺あたりに遍路犬?がいて、案内してくれることがあるとか。

■食事など
・鬼無あたりで声の出ないおじいさんから大きい柑橘類を頂いた。
・山道で車が停まり、お茶を頂いた。
・長尾寺近くの食堂で食器を下げるのを手伝うとお茶を頂いた。
・土佐清水で昼食を摂ったとき、話しかけてきた方がいた。先に出られたが、私が会計しようとしたら「先ほどの方から頂いています」とのことだった。
・その他、ときどきお金も頂いた。それはつぎの札所でお賽銭とした。
・山の上のお寺の納経所で自販機か水場がないか尋ねるとない、とのこと。きついなと思っていたら「庫裏で汲んできましょか?」とペットボトルに水を補充していただいた。
・泊まった宿のお客様にふくさを頂いた。

■宿泊など
・あるお寺の宿坊で素泊まりの宿泊代を払おうとしたら歩きの方は無料ですと伝えられた
・あるお寺の近くの宿で夕食付きの宿泊代を払おうとしたら歩きの方は無料ですと伝えられた
・善根宿を運営されている会社の社長さんの下で夕食と一夜の宿を施して頂いた
・歩いていると善根宿の方に声を掛けられ、夕食のうどんと日と一夜の宿を施して頂いた
・歩いていると「あそこにお堂があるから」と一夜の宿を施していただいた。
・あるお寺の宿坊にお世話になろうとしたら「今工事中だから」と近所の宿に連絡して頂き、そこに行くように伝えられるとともに宿泊代を渡された。その宿で夕食と一夜の宿代を払おうとしたら無料ですと伝えられた。

■景色など
観光は全くしていないが、途中で見かけたところ。
・三原村での星空 天の川を久しぶりに見た。
・室戸岬の御厨人窟 中は大変涼しかった。時期によっては洞窟の中から朝日が見えるそう。

このような体験をしていると人に優しくなれたように思う。遍路の終盤には私もお接待をしていた。
・最終日前日。焼山寺への道は順打ちだとかなりの難所である。逆打ちの私は焼山寺でペットボトルをたくさん買い込み、すれ違って水分を切らしている方にお渡しした。
・最終日前日。焼山寺からへんろ道を下りきると藤井寺であるが、ここでお参りのタイミングが重なった大学生の女の子と仲良くなった。宿が同じだったので食事を一緒に摂り、翌朝私が早く出る際にまだ宿の帳場が開いていないうえ、細かいお金がなかったので「余った分はその女の子の宿代に充足してください」とお金に書置きを添えて宿を後にした。
などである。


なかなかできないかもしれないが、やってみるとなかなか思い出深い体験として刻まれるだろう。運動不足の太めであれば確実に痩せる。帰ってきてから友達と会うと「やばい薬でもやった?」と言われるくらい。
ただ、安易に「じゃあ俺も私も」というのはやめた方がいい。
・焼山寺へは、登って下って登る、という山道。ここで膝を傷める
・それでも頑張って徳島を歩くが、徳島最後の薬王寺から高知最初の最御崎寺までは70km以上ある。
よって、順打ちの多くの人がここでやめてしまうそうだ。坂道を歩きなれているなら別だが、十分な準備が必要だと思う。
その1 2000年8月 の恩人たち
その2 2000年8月 の恩人たち 高知県三原村にて
その3 2000年8月 の恩人たち 三坂峠の長五郎さん

長五郎さんは、亡くなった俳優の渡瀬恒彦さんにどことなく似ていたように記憶している。


その日は松山市内の道後温泉からもほど近い石手寺の宿坊を出発し、繁多寺、浄土寺、西林寺、途中の杖の淵という水場でペットボトルを満たし、別格の文殊院、八坂寺、浄瑠璃寺と、おおむね平坦なので結構なペースで進んだように思う。松山市の浄瑠璃寺を後にすると三坂峠を越えて今の久万高原町の岩屋寺が次の札所であるが、かなりの急坂である。
浄瑠璃寺は海抜100m未満であるが、三坂峠は標高730mくらいだそうだ。8km強で600m以上、もう少しいえば最後の3kmくらいまではそうでもないが、そこから急坂になる。
この急坂、ただの山道であるが、途中にハイカー用のごみ箱があったりした。息を切らし、水も補給しながら登る。かなりきつく、じきに水は底を尽く。登り切れば何か補給できるだろうか?確か九十九折りだったように思うが、やがて車の通る音が聞こえてきて、視界が開けたと思うと果物屋と自販機が目に入った。水分補給するべく自販機に近づいていくと、右から「おお、歩いてきたか、ちょっとおいで これ私からのお接待」と桃を剥いて食べやすいように切って下さった。この方が長五郎さんであった。

三坂峠には当時、ドライブインみさかというものがあり、レストランと果物屋兼売店なおかお土産物屋か忘れたが、そういう施設があった。宿泊施設はなかったが、とりあえずこちらで休んでと、観音堂に案内された。
レストランの左側にひっそりと建っていて、屋根も壁もあり、泊まっても雨風も虫も防げる。畳敷きで4畳半くらいで、中にはきれいな観音像が安置されており、ろうそくや線香もあげられるようになっていた。
陽が傾き始める時間ではなかったが、ここからだと岩屋寺に着くころには日が暮れているかもしれない時間だ。長五郎さんには観音堂に泊まっていくように勧められた。

結果から言えば、そこから概ね丸二日ほど三坂峠に留まった。そして、長五郎さんといろいろな話をした。というより、概ね聞いていた。記憶が怪しいところもあるが
■本人について
・長五郎というのはそれなりに有名で、NHKスペシャル?で取材されたこともある。
 →実際、三坂峠で顔を見たお遍路さん(車で回っている人)から声を掛けられてお接待を受けていた。
・松山市で建築業?をしていたが、昭和天皇が亡くなった日に畳んだ。従業員に継ぐ気はないか尋ねたらないと言われた。
■いろんなところでボランティアしていた話
・南の島で絵葉書を書いて売っていた。
・ボランティア先で女医さんに「無頼な人」と呼ばれたことがあり、本人は気に入っている。
・女医さんにはスナックに飲みに連れて行ってもらったことがある。ただ、店の女の子とバカ騒ぎしていたら怖い顔をされた。
・介護で入浴支援をしていたら、あるおばあさんに惚れられたようで、いつも大騒ぎするのに長五郎さんの時だけおとなしかった。
・自衛隊の方と地図の有用性について語った。
■ご友人関係の話
・神奈川で何かの議員をしている友達がいる。
・友達数名とのバカ話をいろいろと。
■へんろの話
・観音堂は有志で立てて頂いたが、開眼式?の日を忘れていて出席できなかった。
・延光寺のそばにあるへんくつやの親父がクセが強いが、言葉の応酬で相手を感心させた。
・どこだったか?の別格の寺に高齢の尼さんがいるので尋ねてみるといい。
・次の札所である岩屋寺の前の宿のおばさんによろしく。
■その他
・池袋のマクドナルドで接客したお姉さんと仲良くなり泊めてもらった。
・夜のお話いろいろ。

などなど。
三坂峠からは昼も夜も眺めがよく、気持ちが良かった。

いろいろな話をの中で句の話があった。初めの五文字が正しくないかもしれないが
 長縄に はいっておいで 出ておゆき
を聞いた際、次の札所へ向かう決心をした。
出発する意向とその句を話をすると「そういうつもりで言ったんじゃない」と仰っていた。そうだろう。ただ、「あ、ここで心地いいからとだらだら過ごしてはだめだ」と気づかせてくださったのはありがたかった。

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2012年の夏、三坂峠へと向かう際に浄瑠璃寺へ寄り「歩き遍路さんと自転車遍路さんが来たら差し上げて」と缶ジュースひと箱を差し入れた。逆打ちでも順打ちでも、松山市内ならここにお願いするのがベストだろうから。
三坂峠 そこにはドライブインはなく、果物屋だったであろう所はどこかの会社(鉄道会社だったように思う)の保養所になっていた。観音堂は畳が抜けて朽ちていた。が、レストランがあった場所には善根宿があり、長五郎さんの名と書付があった。差し入れ持ってくるんだったな、と思いはしたが、無いものは仕方がない。お会いできなかったが、元気なのだろう。

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今年になって父が余命宣告され(どうやら誤診だったらしいことは後で分かったが)、納棺時にせめて四国八十八か所の納経済みの白衣を用意しようと企み、22年の時を経て巡礼に出かけようかと調べていた時に長五郎さんの足跡とかを調べてみた。
まず、三坂峠の善根宿をgoogleストリートビューで確認したら、ない。似た建物なのだが、誰かの住居?で、長五郎 へんろ というキーワードで調べてみた。が、2017年くらいから探されている方がいらっしゃるだけで、行方が分からないそうだ。
 親孝行 したいときには 親はなし
という言葉に、恩は早めに返さないと後悔するのだということをかみしめている。
その1 2000年8月 の恩人たち
その2 2000年8月 の恩人たち 高知県三原村にて
その3 2000年8月 の恩人たち 三坂峠の長五郎さん

四国八十八か所の霊場を逆打ちであるので、愛媛最後の札所である観自在寺を後にすると県境を越えて高知初めの札所が宿毛市にある延光寺である。県境を越えたのは午前中であったのは覚えている。
延光寺近くに「へんくつや」という宿があるので機会があれば泊まるといいと、途中で会ったお遍路さんに聞いていたが、延光寺にはお昼前には着いた。四国は地図を見ると右と左が下に突き出ているところがある。左が足摺岬、右が室戸岬であるが、次の札所は足摺岬の先端付近にある金剛福寺である。延光寺からは50kmを超える。ルートは足摺岬の左から、右から回れるが、歩く者にとっては距離が短い方がありがたい。この頃にはおそらく600kmくらいは歩いて進んでいるので、坂道もそこまで苦ではなくなっていたので、三原村を突っ切って土佐清水市に抜けるルートを考えていたのだが、宿が心配であった。昼食を採ったお店でタウンページを見て、三原村に宿があるのは確認し、その場で電話したが出ない。留守電話入れたが、おそらく「満室です」ということはないだろうと思い、へんくつやは名残惜しかったが道を進めることにした。
坂を上っていくと確か右側にダムがあり、その周辺で祭りのようなものをやっていたようで、車がたくさん停まっていた。宿の方もがおそらくそれに出ていて留守番もいなかったのだろうな、と思い、更に登っていく。田舎道で狭いかと思ったら交通量は少ないものの結構きれいだった。少し街並みらしいところがあり、確か信号のある交差点辺りだったろうか、私を追い抜いて行った軽トラ(軽バンだったかも)が私の少し前に停車した。何らかのお接待?荷物増えるとつらいなあ、と思っていたら「今夜泊まっていって この先、道沿いに 神社あるけど、その先」とか。「来てなー 待ってるからなー」と走り去っていった。
そこは先ほど電話した宿屋よりも更に奥であった。しばらく歩くと宿があり、留守電を入れた手前お断りしようとしたら、まだ留守であった。やむなく、玄関扉にメモ書きを入れて先を進むことにした。
声を掛けられてから1時間くらいだろうか。鳥居のある社が見えてきたので、これの少し先だろう。と少し歩くと道路に出て先ほどの方が待っていた。正直、ホッとした。
早速家に案内して下さり、風呂入る際に洗濯するものを出しなさい、と奥様に促されるまま風呂に入った。さっぱりして出てくると晩御飯が用意されていて、旦那さんと一緒に話をしながら摂ることになった。土間にテーブルを出している感じでちょっとした居酒屋気分。壁には以前泊めたお遍路さんのお札と礼状が貼られていた。結構話される方で楽しく伺った。昔はイノシシを飼ってて大阪に卸したりしてたけど全部病気でやられた、今は鶏だったか?を卸している、娘が結婚して近所に住んでいる、などなど、書けないこともいろいろと・・。基本、禁酒で歩いていたのだが久々にビールも頂いた覚えもある。
家の離れのようで、与えられた和室に布団が敷いてあり、すぐ縁側があり、縁側からはお遍路中なかなか見上げることもなかった空に満天の星が見えたのは感動的ですらあった。
翌日、洗濯物を受け取り、お礼を申し上げ失礼して、いざ金剛福寺へと進んでいった。

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恩が返せていないので、2012年に家族旅行で鳥取に向かったついでに三原村まで足を延ばすことにした。
記憶をたどりながら向かう。村の中心部を抜け、目印の神社の少し先、だが、じきに村の外れまで来てしまう。3度ほどうろうろしたが分からない。近所の人に尋ね苗字と昔こういうご縁でお世話になって云々お伝えしたら教えてくれた。
お久しぶりにお会いした方はお元気には暮らしていてたようだが、家の中は以前とは違っており、お遍路さんを泊められるような状態ではなかった。おそらく奥さんが亡くなっていらっしゃるのではと推察した。
しきりに「憶えていてくれてありがとう」と仰っていた。また、ビールを箱でお持ちしたのと近所にお孫さんもいるだろうと思いお菓子をお持ちしたが、逆に「軍鶏の卵」を頂いた。「天然のはちみつ」は容れ物がなかったのでご辞退したが、いつまでも人に親切な方なんだと思った。こちらがお世話になったのでお礼に訪れたのだが、まだ礼を返し切れていない気がしている。