その1 2000年8月 の恩人たち
その2 2000年8月 の恩人たち 高知県三原村にて
その3 2000年8月 の恩人たち 三坂峠の長五郎さん

長五郎さんは、亡くなった俳優の渡瀬恒彦さんにどことなく似ていたように記憶している。


その日は松山市内の道後温泉からもほど近い石手寺の宿坊を出発し、繁多寺、浄土寺、西林寺、途中の杖の淵という水場でペットボトルを満たし、別格の文殊院、八坂寺、浄瑠璃寺と、おおむね平坦なので結構なペースで進んだように思う。松山市の浄瑠璃寺を後にすると三坂峠を越えて今の久万高原町の岩屋寺が次の札所であるが、かなりの急坂である。
浄瑠璃寺は海抜100m未満であるが、三坂峠は標高730mくらいだそうだ。8km強で600m以上、もう少しいえば最後の3kmくらいまではそうでもないが、そこから急坂になる。
この急坂、ただの山道であるが、途中にハイカー用のごみ箱があったりした。息を切らし、水も補給しながら登る。かなりきつく、じきに水は底を尽く。登り切れば何か補給できるだろうか?確か九十九折りだったように思うが、やがて車の通る音が聞こえてきて、視界が開けたと思うと果物屋と自販機が目に入った。水分補給するべく自販機に近づいていくと、右から「おお、歩いてきたか、ちょっとおいで これ私からのお接待」と桃を剥いて食べやすいように切って下さった。この方が長五郎さんであった。

三坂峠には当時、ドライブインみさかというものがあり、レストランと果物屋兼売店なおかお土産物屋か忘れたが、そういう施設があった。宿泊施設はなかったが、とりあえずこちらで休んでと、観音堂に案内された。
レストランの左側にひっそりと建っていて、屋根も壁もあり、泊まっても雨風も虫も防げる。畳敷きで4畳半くらいで、中にはきれいな観音像が安置されており、ろうそくや線香もあげられるようになっていた。
陽が傾き始める時間ではなかったが、ここからだと岩屋寺に着くころには日が暮れているかもしれない時間だ。長五郎さんには観音堂に泊まっていくように勧められた。

結果から言えば、そこから概ね丸二日ほど三坂峠に留まった。そして、長五郎さんといろいろな話をした。というより、概ね聞いていた。記憶が怪しいところもあるが
■本人について
・長五郎というのはそれなりに有名で、NHKスペシャル?で取材されたこともある。
 →実際、三坂峠で顔を見たお遍路さん(車で回っている人)から声を掛けられてお接待を受けていた。
・松山市で建築業?をしていたが、昭和天皇が亡くなった日に畳んだ。従業員に継ぐ気はないか尋ねたらないと言われた。
■いろんなところでボランティアしていた話
・南の島で絵葉書を書いて売っていた。
・ボランティア先で女医さんに「無頼な人」と呼ばれたことがあり、本人は気に入っている。
・女医さんにはスナックに飲みに連れて行ってもらったことがある。ただ、店の女の子とバカ騒ぎしていたら怖い顔をされた。
・介護で入浴支援をしていたら、あるおばあさんに惚れられたようで、いつも大騒ぎするのに長五郎さんの時だけおとなしかった。
・自衛隊の方と地図の有用性について語った。
■ご友人関係の話
・神奈川で何かの議員をしている友達がいる。
・友達数名とのバカ話をいろいろと。
■へんろの話
・観音堂は有志で立てて頂いたが、開眼式?の日を忘れていて出席できなかった。
・延光寺のそばにあるへんくつやの親父がクセが強いが、言葉の応酬で相手を感心させた。
・どこだったか?の別格の寺に高齢の尼さんがいるので尋ねてみるといい。
・次の札所である岩屋寺の前の宿のおばさんによろしく。
■その他
・池袋のマクドナルドで接客したお姉さんと仲良くなり泊めてもらった。
・夜のお話いろいろ。

などなど。
三坂峠からは昼も夜も眺めがよく、気持ちが良かった。

いろいろな話をの中で句の話があった。初めの五文字が正しくないかもしれないが
 長縄に はいっておいで 出ておゆき
を聞いた際、次の札所へ向かう決心をした。
出発する意向とその句を話をすると「そういうつもりで言ったんじゃない」と仰っていた。そうだろう。ただ、「あ、ここで心地いいからとだらだら過ごしてはだめだ」と気づかせてくださったのはありがたかった。

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2012年の夏、三坂峠へと向かう際に浄瑠璃寺へ寄り「歩き遍路さんと自転車遍路さんが来たら差し上げて」と缶ジュースひと箱を差し入れた。逆打ちでも順打ちでも、松山市内ならここにお願いするのがベストだろうから。
三坂峠 そこにはドライブインはなく、果物屋だったであろう所はどこかの会社(鉄道会社だったように思う)の保養所になっていた。観音堂は畳が抜けて朽ちていた。が、レストランがあった場所には善根宿があり、長五郎さんの名と書付があった。差し入れ持ってくるんだったな、と思いはしたが、無いものは仕方がない。お会いできなかったが、元気なのだろう。

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今年になって父が余命宣告され(どうやら誤診だったらしいことは後で分かったが)、納棺時にせめて四国八十八か所の納経済みの白衣を用意しようと企み、22年の時を経て巡礼に出かけようかと調べていた時に長五郎さんの足跡とかを調べてみた。
まず、三坂峠の善根宿をgoogleストリートビューで確認したら、ない。似た建物なのだが、誰かの住居?で、長五郎 へんろ というキーワードで調べてみた。が、2017年くらいから探されている方がいらっしゃるだけで、行方が分からないそうだ。
 親孝行 したいときには 親はなし
という言葉に、恩は早めに返さないと後悔するのだということをかみしめている。
その1 2000年8月 の恩人たち
その2 2000年8月 の恩人たち 高知県三原村にて
その3 2000年8月 の恩人たち 三坂峠の長五郎さん

四国八十八か所の霊場を逆打ちであるので、愛媛最後の札所である観自在寺を後にすると県境を越えて高知初めの札所が宿毛市にある延光寺である。県境を越えたのは午前中であったのは覚えている。
延光寺近くに「へんくつや」という宿があるので機会があれば泊まるといいと、途中で会ったお遍路さんに聞いていたが、延光寺にはお昼前には着いた。四国は地図を見ると右と左が下に突き出ているところがある。左が足摺岬、右が室戸岬であるが、次の札所は足摺岬の先端付近にある金剛福寺である。延光寺からは50kmを超える。ルートは足摺岬の左から、右から回れるが、歩く者にとっては距離が短い方がありがたい。この頃にはおそらく600kmくらいは歩いて進んでいるので、坂道もそこまで苦ではなくなっていたので、三原村を突っ切って土佐清水市に抜けるルートを考えていたのだが、宿が心配であった。昼食を採ったお店でタウンページを見て、三原村に宿があるのは確認し、その場で電話したが出ない。留守電話入れたが、おそらく「満室です」ということはないだろうと思い、へんくつやは名残惜しかったが道を進めることにした。
坂を上っていくと確か右側にダムがあり、その周辺で祭りのようなものをやっていたようで、車がたくさん停まっていた。宿の方もがおそらくそれに出ていて留守番もいなかったのだろうな、と思い、更に登っていく。田舎道で狭いかと思ったら交通量は少ないものの結構きれいだった。少し街並みらしいところがあり、確か信号のある交差点辺りだったろうか、私を追い抜いて行った軽トラ(軽バンだったかも)が私の少し前に停車した。何らかのお接待?荷物増えるとつらいなあ、と思っていたら「今夜泊まっていって この先、道沿いに 神社あるけど、その先」とか。「来てなー 待ってるからなー」と走り去っていった。
そこは先ほど電話した宿屋よりも更に奥であった。しばらく歩くと宿があり、留守電を入れた手前お断りしようとしたら、まだ留守であった。やむなく、玄関扉にメモ書きを入れて先を進むことにした。
声を掛けられてから1時間くらいだろうか。鳥居のある社が見えてきたので、これの少し先だろう。と少し歩くと道路に出て先ほどの方が待っていた。正直、ホッとした。
早速家に案内して下さり、風呂入る際に洗濯するものを出しなさい、と奥様に促されるまま風呂に入った。さっぱりして出てくると晩御飯が用意されていて、旦那さんと一緒に話をしながら摂ることになった。土間にテーブルを出している感じでちょっとした居酒屋気分。壁には以前泊めたお遍路さんのお札と礼状が貼られていた。結構話される方で楽しく伺った。昔はイノシシを飼ってて大阪に卸したりしてたけど全部病気でやられた、今は鶏だったか?を卸している、娘が結婚して近所に住んでいる、などなど、書けないこともいろいろと・・。基本、禁酒で歩いていたのだが久々にビールも頂いた覚えもある。
家の離れのようで、与えられた和室に布団が敷いてあり、すぐ縁側があり、縁側からはお遍路中なかなか見上げることもなかった空に満天の星が見えたのは感動的ですらあった。
翌日、洗濯物を受け取り、お礼を申し上げ失礼して、いざ金剛福寺へと進んでいった。

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恩が返せていないので、2012年に家族旅行で鳥取に向かったついでに三原村まで足を延ばすことにした。
記憶をたどりながら向かう。村の中心部を抜け、目印の神社の少し先、だが、じきに村の外れまで来てしまう。3度ほどうろうろしたが分からない。近所の人に尋ね苗字と昔こういうご縁でお世話になって云々お伝えしたら教えてくれた。
お久しぶりにお会いした方はお元気には暮らしていてたようだが、家の中は以前とは違っており、お遍路さんを泊められるような状態ではなかった。おそらく奥さんが亡くなっていらっしゃるのではと推察した。
しきりに「憶えていてくれてありがとう」と仰っていた。また、ビールを箱でお持ちしたのと近所にお孫さんもいるだろうと思いお菓子をお持ちしたが、逆に「軍鶏の卵」を頂いた。「天然のはちみつ」は容れ物がなかったのでご辞退したが、いつまでも人に親切な方なんだと思った。こちらがお世話になったのでお礼に訪れたのだが、まだ礼を返し切れていない気がしている。

その1 2000年8月 の恩人たち
その2 2000年8月 の恩人たち 高知県三原村にて
その3 2000年8月 の恩人たち 三坂峠の長五郎さん


2020年7月中頃 当時住んでいた神奈川を出発し、名古屋へ向かった。栄やらをブラブラしたあと、名古屋在住の方々のOFF会が開かれるお店に時間少し前に到着するよう向かった。手土産に崎陽軒の横浜シウマイを携えて。もちろん、お店に持ち込みを交渉した上でなので念のため。お店にも同じものをお土産として渡した。
その夜の夜行バスで徳島へ向かった。当時、東京や神奈川から徳島へ行く夜行バスがなかったからだ。OFF会参加はあくまでついでである。

その後、1カ月と少しの期間を費やして、四国霊場八十八か所を歩いた。いわゆる徒歩遍路である。1番から順に回るのではなく、1番~3番は足慣らしで歩き、次は大坂峠を越えて逆順に回る「逆打ち(さかうち)」を行った。
先日、費やした日数は覚えていたので、どういう日程で回ったのかを書き出してみた。が、宿泊したタイミング(どの札所の後か)が思い出せるのが半分くらい。宿の印象を憶えていても、だ。なんとも情けない話である。
なお、歩いたら初日だけで7kgほど痩せた。トータルで20kgほど減り、高校時代のベスト体重くらいにはなった覚えがある。

さて。この旅程の中での恩人は数名いるが、思い出深い方が2人いる。
本来は1ページに書いた方がいいのだが、分量が多くなりそうなので分割する。