「駆ける魂」(中) 中井川GM@日経新聞 | てっちゃんとコテッチャンのブログ

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日経新聞夕刊スポーツ欄


モンテディオ山形GM 中井川茂敏(52歳)


第2話 2011/1/18


 「まさか、この世界で働くことになるとは思っていなかった」と中井川茂敏はいう。中学でサッカーを始めたものの、日大山形高では2年で退部。日大でも法学部のサッカー部でプレーしただけで、1982年にNEC山形に入社した。


 サッカーと深くかかわることになったのは86年のことだ。92年に国体を控えた山形県からNEC山形に強化種目を持つように要請があった。女子の9人制バレーなど4種目の中からサッカーを選定する作業を行ったのが中井川だった。


 86年、同好会を母体にしたサッカー部の強化・運営担当となり、社業をこなしながら、1人で事務局を切り回すことになった。当然、一線級の選手は取れない。大学リーグを毎週、見に行くこともできなかった。


 「だからこそ、情報を大事にした。正確な情報をいかにつかむかがポイントだった」。狙った選手を指導する監督だけでなく、対戦相手の監督の評価も聞いて回った。他チームの強化担当者からも情報を集め、大学では控えだが、力を秘めた選手を探した。補強は実り、85年に鶴岡地区5部だったチームを90年には東北リーグに昇格させた。


 もちろん、中井川は監督の人選に重きを置く。指導者の重要性に気づかせてくれたのは、89年にヤマハ(現磐田)から特別コーチに招いた山本昌邦だった。


 後に五輪代表監督となる山本の指導は細かかった。宿舎で選手が裸足でスリッパを履いていると、「足をぶつけたらケガをするぞ。サッカー選手なのだから足を大切にしろ」と一喝した。練習は狙ったところに蹴れるようにすることから始め、基本の反復に徹した。


 東北リーグ昇格が懸った試合でのこと。その試合にボールボーイはいなかった。先行されると山本は残っている選手に球拾いをさせ、すみやかに試合を再開させるため、すぐに返球させた。そして、逆転すると球拾いをやめさせた。「優れた指導者は、そこまでするのかと思いましたよ。」


 2007年秋にゼネラルマネージャー(GM)としてクラブに復帰後、小林伸二を監督に呼んだのは、豊富な経験と人間性を買ってのことだ。大分をJ1に昇格させ、C大阪で優勝争いをしただけでなく、広島ユース監督として育成の実績を残し、福岡でチーム統括部長として経営にもタッチしたことに目を付けた。


 チームが地力を増したのは、中井川が低予算の中で長谷川悠、石井秀典、古橋達弥、下村東美、田代有三(今季鹿島に復帰)らを的確に補強したうえで、小林が移籍選手や佐藤健太郎、秋葉勝、北村知隆らの力を着実に伸ばしたからだ。


 「監督を代えるのは、本人が自信を失った時だけ。」と決めている。負けが込んでも支持し続ける。「フロントがぶれてはいけない。組織が崩れて行く時は内から崩れるもの」。だから不協和音を抑え、内部を固めることに腐心する。


 1997年に一度、NEC山形に戻り、総務部で10年間、工場の閉鎖、売却やリストラにかかわった中井川はこう言い切る。「私の仕事は特殊なものではない。普通はビジネスと同じですよ。」人を育て、組織を育てる。




連載担当、吉田誠一




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