【今週のワンポイント-40】わらわらと和田 | 人生竪堀

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TEAMナワバリングの不活発日誌

 ドラマの方はいよいよ和田合戦へとなだれこむわけだが、その前に、時間の流れを確認しておこう。

 まず、実朝が鎌倉殿に擁立されたのが、建仁3年(1203)の9月。畠山重忠の乱が元久2年(1205)6月で、その直後に時政が失脚。これらの事件は、実朝がまだ十代前半で右も左もわからないうちに、立て続けに起きたものだ。

 一方、ドラマの第40回で描かれた陰謀事件やら、和田一族が御所に押しかける事件が起きたのは、建暦3年(建保元/1213)の2月~3月にかけて。畠山の乱から8年もたっているのだから、そりゃ、和田殿のヒゲも白くなるわけだ。実朝が20代半ばに差しかかって、自分で考え、行動できる年齢になっていることも、押さえておきたい。

 ドラマではチラッと触れられただけだったが、この間の出来事として一つ再確認しておきたい件がある。建永2年(承元元/1207)1月、時房が武蔵守に任官しているのだ。ドラマの前回で、鞠を見ながらしおらしく頼家のことを思い出していた時房、ちゃっかり国司になっているじゃないか。しかも、重忠の死後1年半で武蔵守である。

 時間軸に沿って整理すると、和田義盛が上総介になりたいと言いだしたのが、承元3年(1210)の5月。時房の任官から3年後である。時房が武蔵守ならオレだって、みたいな思いも義盛にはあったのではないか。

 ちなみに、和田合戦で義盛方に立って参戦したのは、和田一族だけではない。武蔵の横山党のように、義盛と縁戚関係にあって参戦した者もあるが、他にも相模・伊豆・武蔵の御家人が多数、挙兵に身を投じている。

 たとえば、岡崎義実の息子の土屋義清や、孫の岡崎実忠(石橋山合戦で討死した佐奈田義忠の息)。土肥氏や渋谷氏の一族、大庭一族や梶原一族の生き残りなどなどとで、幕府草創以来の功臣組といってよい一族が多い。

 和田義盛の個人的な縁戚関係や人望だけでは、これほどの動員はできなかっただろう。背景には、北条一強体制への御家人たちの不満があった、と見て間違いない。

 そうした中で、実朝と個人的に近しい和田義盛を義時が警戒し、一方で、義盛が不満分子たちの旗頭的な立ち位置になっていった。そうして、両者の対立はとうとう臨界点に達してしまったのである。

 

(西股総生)

 

《ワンポイントイラスト》

 

 

和田合戦カウントダウン!義盛も年をとりました…

 

(みかめゆきよみ)