【今週のワンポイント-2】佐殿の腹を満たす | 人生竪堀

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TEAMナワバリングの不活発日誌

 頼朝が伊豆に配流となったのは、1160年(永暦元)のこと。1180年(治承4)に挙兵するまで、20年ほど流人生活を送ったことになる。
 配流とか流人というと、柵に囲まれた家に軟禁されている様子を思い浮かべる人もいるかもしれない。でも、この時代の配流は、わりあいユルかった。普通の家で、普通に暮らすことができた。電話も新幹線も高速道路もない時代のこと。都から遠い国に流してしまえば、政治的には抹殺されたも同然だったからだ。
 近場であれば、寺社に参詣くらいはOK。頼朝の場合、三島・箱根・熱海・湯河原くらいの範囲は動けたようだ。多分、温泉に浸かったこともあるのだろう。田舎社会では口コミ情報はツイッター並みの拡散速度だから、何かあればすぐに監視役に伝わっただろう。
 ただし、現代の刑務所のように食事や衣服が支給されるわけではない。衣食は、監視役からあてがってもらうか、隣近所に恵んでもらうか、畠を耕すなどして自力で調達するか、誰かの仕送りを頼るしかない。
 頼朝の場合、ぜいたくをいわなければ、どうにか食って行けたようだ。かつて頼朝の乳母だった比企尼(ひきのあま)が、折にふれて仕送りしてくれたのが大きかったようだ。比企氏は、武蔵の比企郡(杉山城のあたり)に居を構える有力武士である。
 他にも、お裾分けや手土産のたぐいが結構あったはずだ。「佐殿」は田舎では有名人だから、何かのついでに配所に顔を出す者も少なくない。となれば、手ぶらでは来ない。自分の領内で採れた産物なり、狩の獲物なり、何かしら持参するのが普通だ。あとは藤九郎(安達盛長)がやり繰りして、どうにかしのいだ。なので、頼朝が政子とくっついたとき、藤九郎はホッとしたにちがいない。北条の婿におさまれば、とりあえず食う心配はなくなるからだ。
 こんなふうにして頼朝は、土地に根を張る東国武士たちの生き様を間近に見ながら、成長していったのである。

 

(西股総生)

 

《ワンポイントイラスト》

 

 

プーからパラサイトへランクUP! 飯の心配がなくなったし、次は挙兵の準備……?

 

(みかめゆきよみ)