【今週のワンポイント】1月9日号 | 人生竪堀

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TEAMナワバリングの不活発日誌

 『鎌倉殿の13人』で中世軍事考証を務める西股が、ドラマの中のちょっとしたポイントをサクっと解説する「今週のワンポイント」。『真田丸』の時と同じように今回もやりますので、一年間ご愛顧下さい。

 さて、第一回のワンポイントは「佐殿(すけどの)」という頼朝の呼び名。これは「前右兵衛佐(さきのうひょうえのすけ)」という肩書きに由来する。頼朝が「右兵衛佐」に任じられたのは、13才のとき。そして、平治の乱で負けて流罪となったので、官位・官職を剥奪されので、「前」が付く。
 「右兵衛佐」とは、朝廷の警備に当たる兵衛府(ひょうえふ)という役所の次官だ。兵衛府のような軍事部門の役所は、長官を「将・督(かみ)」、次官を「佐(すけ)、三等官を「尉(じょう)」と呼ぶ。
 近代の日本軍や現在の自衛隊で、将校のランクを将官・佐官・尉官と分けているのも、この律令制以来の伝統にならったもの。なので、頼朝は近代風にいうなら「頼朝少佐」くらいな感じだ。
 もっとも、平安時代の後期には、兵衛府のような軍事部門の役所は有名無実化していたから、官職といっても役人たちをカースト化するための肩書きでしかない。北条義時や三浦義村のような田舎の若者からしたら、「右兵衛佐って何する人?」だっただろう。それでも、この肩書きは田舎では絶大な威力を発揮した。というのも … 。
 当時、地方の武士たちは院や貴族に勤労奉仕して(大番役)、貢ぎ物をいっぱいして、ご褒美としてようやくもらえる官職が「兵衛尉(ひょうえのじょう)」「衛門尉(えもんのじょう)」だった。ところが、頼朝は中坊くらいの年でいきなり「佐」。地方武士が、どんなにがんばっても手の届かない「佐」である。
 家柄、つまりスタートラインが決定的に違うのだ。だから、田舎武士たちは頼朝を「佐殿」と呼ぶたびに、「ああ、この人は自分たちとは違う種類の人なんだなあ」と感じずにはいられない。ましてや、都に行ったこともない政子や八重からしたら、「佐殿」は異世界から降ってきた王子様みたいなものだ。
 うーん。この分だと、記録には残っていないけど「佐殿」、他にもやらかしていたんじゃないかなあ?

[補足]頼朝の官名は、正確には「前右兵衛権佐(さきのうひょうえごんのすけ)」と「権」が入る。もともと律令制では正規ポストは員数が決まっていたが、何かの都合で増員が必要になったときに権官(ごんかん)という定数外の職員を置いた。平安中期以降に律令官制が有名無実化するにつれ、権官はどんどん増えていった。今風にいうなら、課長は規則どおり1人だが、偉い人に付け届けすると課長心得やら課長代理やらにしてもらえる、みたいな話である。

 

(西股総生)

 

《ワンポイントイラスト》

 

「佐殿(すけどの)」って軽いニュアンスに聞こえるけど、えげつないほどのプリンス!

 

(みかめゆきよみ)