(③から続く)
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さて、清盛茶屋を慌ただしく後にして、速足で歩く。
いくら2月の寒い時期だと言っても、早足で歩けば大汗をかいて
移動することになり、なんとか出航の時間には間に合わせること
ができた。
桟橋を歩くと、背の低い船が待っていて、形状から高速移動型な
かと思いつつ乗船。数分もすると座席はほぼ満席となり出航。
船は桟橋を離れつつ、ゆっくりと方向転換を行い、北東に回頭す
ると急加速する。
加速に合わせるように窓の外には激しい水飛沫をあげ波をかき分
けながら、けたたましいエンジンの音を立てて進みだした。
厳島を背後に見るようになると、ほぼ南の方に島が見えてくる。
あれは、四国なのかと思い、地図を見て驚く。
自分が見た方向が江田島市や呉市にあたり、この海域が広島県内
の島々に囲まれていることを理解する。
つまり、これらの島のさらに南方には瀬戸内海があって、さらに
その先に四国(おそらく直線では愛媛県にあたるのかと思う)とい
うことを知って何度目かの驚きを感じた。
そんなこんなで、船に揺られること30数分。
徐々にいずこかの河口に入ったらしく、明らかに川と思われる風
景に変わり、それまでの高速移動から速度を落とし、遊覧船のよ
うな動きに変わっていた。
後ほど気づくのだが、あるポイントで大きく右に旋回した先に、
ふと原爆ドームのてっぺんが目に入った。
そう、この川ははだしのゲンで、原爆投下によって著しく火傷を
負った人たちが水を求め、そこで亡くなったという川だと理解し、
息をのんだ。
ゆっくりと船が目的の桟橋に接岸し下船。
乗船口を出てカフェらしき場所に出る、
周囲を見回しているとどこからか二種類の鐘の音が響いてきた。
一方は寺で聞くような低い鐘の音で、他方は高い鐘の音。
ここが平和記念公園であることから、鎮魂のためのものと、平和
を願うもののそれぞれの音だろうと思った。
そして、爆心地がここらへんだということにも思い至った。
ふと、テレビのニュースなどで、何度か見た光景だ。
本能的に北に向かって歩く。
まず、学徒動員で犠牲になった方たちの慰霊塔が目に入る。
まず、そこで慰霊塔に近づき説明板を読んでから、塔の前で合
掌し黙祷。
さらに、その向こうへ人が歩いていくのに気づき、そのあとに
続く。
本当に1分ほど歩き、北の方の空を見上げ目に入って来るのは、
錆びてむき出しのかつて円形のドーム型だっただろう錆びた鉄
骨の骨組みだった。
その瞬間、鼓動が跳ね、足早にそちらへと向かった。
つくも下地の元々は白かっただろう煤けた壁と、むき出しの鉄
骨の建物があった。
そう、まさしく原爆ドームと呼ばれる建物を見た。
その光景に衝撃を受け、黙って見上げてしまった。
ふと、地面の方をみると爆風ではがされただろう壁の瓦礫が落
ちていた。
近くにあった説明板を読み、戦慄した。
原子爆弾は昭和20年8月6日、午前8時過ぎ、この原爆ドームは
正しくを広島市産業奨励館というのだそうで、この建物から見
て、南東160メートル先の地上から800メートルほどの上空で
原子爆弾は炸裂したと書いてあった。
その瓦礫から見える、原子爆弾の爆風と熱と圧力が想像を超え
る地獄の様相だっただろうことが容易に想像できた。まさに、
仏教で表される地獄の中にある大叫喚地獄というものを想起し
少し歩きながらも様々な方向からこの建物を見ていた。
そして、その建物を見ながら、その日の光景を思い浮かべてい
た。
その瞬間が訪れる前までは普通に広がっていただろう、いつも
の風景。
そのいつもの光景を突如、米軍機の襲来を知らせる警報が響き
渡り、誰もが慌てて避難する。
しかし、その日のその瞬間は人類の想像をはるかに超える、圧
倒的な破壊と殺戮を引き起こすものとは思っていなかっただろ
うと思う。
原子爆弾が爆発し、立ち上ったキノコ雲の下は、まさに阿鼻叫
喚の様相だったことは想像に難くない。
亡くなった祖母も、その日、南方に上った不思議な形の雲を見
て、のちにそれが原子爆弾によるきのこ雲だと知って、恐れお
ののいたと語っていたことを思い出す。
その1発が、人々の日常を奪い、尋常ならざる苦しみと痛み、
死とその恐怖をまき散らしたと言っても過言ではいと思う。
原爆ドームをしばらく見てから、その前を流れる河川沿いに大
通り方向へと歩く。
大通りに出る少し前の場所に、目の前に架かる橋が「相生橋」
という名の橋の説明板が立っていた。
それを読むと、国内でも珍しい丁字橋であるという。
その説明を読んでから、橋を見ると確かに途中から南に向かっ
て橋が架かっていることに気づく。
南に向かう橋の向こうも橋になっていることから丁字(いわゆ
るT字)だと理解した。

そこからTの真ん中、つまり南に向かう橋に歩を進める。
すると、目の前に公園が広がっていた。
おそらくここが平和記念公園だと理解した(気づくのが、遅
かったけど…)。

公園を入ってすぐに、船から降りて聞いた2種類の鐘の音の
一つ、低い音の正体を見た。「平和の鐘」と銘のある梵鐘が
あった。
ああ、低い音の方はこれだ、と。
誰かが、撞木の下で合掌し、恭しく礼をしてから撞木を引い
て鐘を突いていた。鐘の低い音が公園に響く。
核兵器の廃絶と戦争のない平和を願うものという鐘の音が厳
かに響いた。
そこからさらに南に進むと、今度は高い鐘の音がする。
目の前に、多くの千羽鶴などが保護されるように陳列する場
所が目に入る。
そこは原爆の子の像という慰霊碑だった。
石碑の言葉を見て、なんと純粋な思いだろうか、と立ち尽く
す。
この慰霊碑の言われを知ると、なお、強く思ったのは言うま
でもない。
そして、さらに南に進むと、すこし陽炎が立つ場所があるこ
とに気づく。
そう、テレビのニュースなどでよく見た、あの光景があった。
そこには、常に炎が上がる場所が見えた。
そして、さらに先には馬の鞍のような形をしたモニュメント
も見えていた。
これが、毎年8月に行われる原爆投下の日の式典の場所なん
だと。
その炎が立ち揺らめく場所が「平和の灯」で、ゆっくりと炎
が揺らめいていた。
そして、平和の池の先に馬の鞍のような形をした記念碑の横
を通り、北の方に向きを変える。
少し南東側から見ていたので、改めて馬の鞍のように見え、
真正面の方は数人の人たちが写真を懸命に撮って
いたが、数分もするとまばらに散って、静寂の様相を帯びて
いた。
改めて正面に向かって、記念碑から北の方を見る。
すると、その記念碑の向こうには平和の灯が揺らめき、さら
にその先には原爆ドームが一直線に見えた。
その瞬間、、峻厳にして気が引き締まるような気持ちになった。
十数万人もの人達が、犠牲になったとも伝え聞いた原爆の爪
痕は、今は綺麗に整備された公園と、復興し繁栄をしている
市街地となっていた。
しかし、ここに至るまでの時間は、多くの人たちの苦悩と苦
痛があったことは想像に難くなく、また、困難な状況だった
ことと、過ぎ去りし81年の月日を思うと自然と合掌し黙祷し
ていた。
その後、周辺を見渡して、広く整備された芝生の区域に気づ
き、ここが式典のときに来賓が来て座るのだろうな、と思っ
て少し歩いてみて回ることにした。
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(⑤に続く)










