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ハッセルが欲しかった

お仕事用のMac2台まとめてイッキに故障&物理的絶不調になっていたのだが、なんとか週末前にAppleより戻ってきた。

なので今週末、そして現在進行形でセッティングのやり直しをしているので、時間の概念がトンでしまっている。

おかげでプライベートな件で、いろいろとご迷惑をおかけしてしまった、申し訳ございません。



来週月曜までに過去未発表、もちろん仕事的な用途で撮影されていない、アリモノなランドスケープな画像が必要となっている関係で、Macのセッティングをしながら過去のプライベートな撮影データをあさっている。


その画像がほとんどRAW、もしくはPhotoshopでイジられた16bit TIFFで保管されている。

いまこのブログをつけたりiTunesなんかに使用しているintel iMacだと、それを展開できるアプリケーションがiPhotoと、とあるフリーソフトなので、撮影画像をあさるにはやはり非力このうえないです。

フォトグラファー・オニギリジョーの現実逃避サーフィング-SQpict


この暗~い写真は、ランドスケープな写真でも、今回の件ではまったくコンセプトとが違うので載せてみました。

およそ正方形な、スクエアフォーマットな写真なんですが、このフォーマットなあたりに過去ハッセルが欲しかった想いとゆーかコンプレックスが。

いや、いろんな余裕があるならいまでも欲しい、ハッセルブラッド。

理由はカッコいいから、それだけ。


フォトグラファー・オニギリジョーの現実逃避サーフィング-ハッセル

この写真は拾い物、たぶん古いタイプの500Cとかだと思う。

今現在は6X6サイズのハッセルって製造が終わったので、Fujiとの共同で開発、販売されているデジタルバックでの使用を意識した6X4.5サイズなボディしか、新品を(一応)入手できないし、そのデザインはそれまでのハッセルの面影こそ(すこーし)あるけどやはり別モノ。


カメラなんて実用品、デザインで使うものじゃありません、なんてゆーご意見もあるかと思いますが、個人的にハッセルだけはミーハーなプロダクトデザインごころをくすぐった、唯一のカメラでした。


世の中にはカメラ好きなひとは多いと思うけど、特にライカ愛好者とか。

フォトグラファー・オニギリジョーの現実逃避サーフィング-ライカM2

またまた拾い物画像で申し訳ないが、カメラ現物を所有してないのでしょーがないのだ、これがライカM2とゆーカメラ。

プロダクトデザインとしてもカッコよいし、もちろんカメラの機能やその描写はステキらしいが、もともとあんまり35mmサイズのフィルムに対しても、レンジファインダーとゆー機能にも、個人的にはあんまり興味がなかったので、ライカに魅力はあんまり感じたことナシ。



昨今は仕事もプライベートもデジタルばかりでフィルムなんか使わないし、特に仕事なんかでは使わせてくれない。


そーいえば、最期にフィルムを使った記憶っていつのことだったのだろう?

とんと思い出せないが、いまだに期限切れなブローニーや4X5のリバーサルフィルムとか、ポラロイドフィルムが捨てられずにゴッソリとあったりする。


過去にはほとんど興味を感じなかった35mmフィルムやレンジファインダーではないけど、すこし年齢を重ねるとすこしは素直なキモチになるのか、デジタルコンパクトカメラでテキトーな撮影とかの楽しさを覚えてみたりもした。

その話題は次回。

 iTunes Music Store(Japan)

若い世代の写真って凄くない?

フォトグラファー・オニギリジョーの現実逃避サーフィング-enosui001
普段ね、あんまりスナップって撮影しないし、スナップって得意じゃないんです。

でもこの上の写真はめずらしくスナップなんだけど、なんだかキレイなおねーちゃんが街なかで声かけて来て「ギャラリーで個展をやってるんですぅ、無料なので是非ご覧になっていきませんかぁ?!」と体を密着させるように拉致して、もの凄いクレジット支払い分割回数で買わされる、どーでもええリトグラフっぽかったので、載せてみました。


さて、ここから本題です。


写真とカメラに対して、決定的にその表現力の差とゆーかその感覚や哲学が、現在ある世代でクッキリとわかれているはずだ。

特にスナップ撮影に関してモノ凄く良い写真を、テキトーな感じで撮れる若いひとは多い。


推測なんだけども20代半ばくらいなのかな、その世代を境界として、それより下の世代は確実に写真の表現とその力が優れている場合が多い。



先に理由は述べちゃうけど、あたりまえだよね、彼/彼女たちが思春期な時期からデジカメが存在したんだもん。

その世代とそれ以上の世代では、もはや写真に対する感覚的な差は、文化や環境の差と同じくらい違う。


普通の日本人だと、ハモれるだけで凄いと言われるよね。

ゴスペルなんかの音楽をやってるひとたちは、ヘーキでそこいらの街にゴロゴロいる、おっさんやおばちゃん、おねーちゃんがやってたりして、その文化的土壌や身体能力の差と同じくらい違う。



彼ら世代は(性能が優秀とはいえない)カメラ機能が搭載された携帯電話を、モノゴコロつくころより普段から持ち歩いているのが普通。

携帯のカメラもそうだけど、デジカメの場合はメモリーカードって使うでしょ?

そのメモリーカードって、まあ今なら最低でも数百枚単位で撮影できる容量。


ちなみにわたくしは30代後なのだが、わたくし世代が10代後半~20代半ばとゆー、人生でたぶんもっとも輝ける時期であろう時代には、まだデジカメは無かった、または普通に普及していなかった。


特にカメラに興味が無ければ『写るんです』が大活躍。

あれって、撮影枚数って24枚から36枚、もしかしたらフィルムサイズが通常の35mmではなかった気がするから違うかもしれないけど、おおむねそのくらい。


24~36枚の撮影が可能!!!!


いやはや、もしかしたら当時、36枚なのは多いとか思ってたんじゃないのかな。

いつもの学校のメンバーな飲み会だから24枚も撮らないよ、とか。


いまならそんな枚数ありえんでしょ?!


だからイヤでも我々世代、それ以上の世代は、写真に対してそんなケチくさい感覚がしみ込んでる。


特に写真やカメラが好きだったりして、日常的に撮影していると、もはやフィルムの枚数は『リズム感』としてカラダにベッタリくっついてるんだよ、あと6カットはいける~っ、とか。


リズムに対しての臆病さを全く知らなくて、なおかつ日常的に誰でもカメラを持ち歩いている世代か。


そんな世代に我々世代がスナップなんかで普通に勝負挑んでも、勝てるワケがないよ。


だから写真に対して愚直な努力で技術と感性を日々鍛えねば、我々世代はすぐに追い抜かされてしまうねぇ。

ひとの視覚と写真機の視覚(2)

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前回の続きね。


ひとはみたモノに対して必ずアタマで情報操作してるよね。

でないと、じゃんじゃん入ってくる世界の情報の多さに脳みその処理が追いつかん。


てことで、ひとはみたくないモノを意図的に排除してみることができるのは、ご存知のとーり。


よくあるでしょ?

キレイな風景をみて、キレイだな~と思って写真を撮って、あとでみてみるとイガイとつまらん風景だったりとか。


それって、別にカメラに対するウデの差とか、カメラの性能とかじゃなくてさ、やっぱりひとは『心』っぽいところでモノをみてる証拠だよ。


だから、我々職業写真家なんかは、意識的にか無意識にか、そのひとや状況で違うだろうけど『徹底的に情報(被写体)を操作』してるんですね。

あと、写真が普通にウマイひともそーだと思うけど。


アングルとか光とか色とかいろいろ演出したりねつ造したり。


だから『写真』という言葉って『真(実)を写す』的な漢字だから、誤解されてやすいなぁ、と思ってるんですね~。

もちろん写真は、真実をみせる為の道具や行為でもあるんだけど、もっとも身近な外国語な英語で写真のことを『ぴくちゃ』と『ふぉと(ぐらふ)』とか、いろいろと状況や表現とか、まぁ地域性でもちがうんだけど、写真を表す言葉はいっぱいあったりとかするよね。



だから何なんだ、と言われてしまえばそれまでのことなんだけど。



20代前半以前に生まれたひとたちには、我々30代後半のひとびとは、もはや絶対に写真の表現感覚は負けるのだ。

と、こんど書く文章の予告しておこっと。