地図で神社と古代の姿を見比べていて、近くに「龍王山」という名の山があり、龍王に関係するなかな?と期待して調べてみた結果がコレでした。

 
↑ 国土地理院での検索結果
 
 こんな感じで見事に「中綿津見」の支配領域にある事が見て取れます。

 岡山県人なら近所に龍王山というのがありふれていて、珍しい名前ではないのですが、この分布とワダツミとの関係を考えてみていると「ハッ」と気付く事がありました!

 鵜葺草葺不合命の母の豊玉姫が龍王ならば、豊玉彦龍王のハズですよね!

 しかし豊の国には龍王山がありません、徳島も豊玉姫に関係しそうな所にも無く、同様に高知にも、鹿児島にも、出雲にもありません、コレはどうした事でしょうか?
 
 特に広島県・岡山県に集中していますよね!
 ちょうど「吉備の国」と重なる印象があります、しばらく考えていると、この配置の意味を理解出来たと思います。

 この龍王山と名付けられた配置は、ナーガ族の龍王達が自分の支配地に名づけた名前ではないかという事です。

 仏教ではインドに伝わる龍王22人います、検索で出た「龍王山」の数は72、日本に渡来してきて土着した地の中心が「岡山県」であり、そこから五代くらいの間で広がっていき、百年くらいで岡山県・広島県東部・香川県徳島県の北半分を支配地に治めた証拠と言えると思います。

 これを中綿津見龍王だけが残した足跡だとすると、明らかに他にも拡がっている龍王は何故名付けないのか?という疑問だけが残ります。

 だから、龍王山と名付けた、この最初期の百年くらいが「磐座信仰」が強くあり、山の支配者として龍王がいた証拠を残しているのだと推測します。
 
 ハテツミ(果て統み)はホツマツタヱにも鹿児島のソヲにいた事が書かれていますので、ヤッパリ「底綿津見」だとして大丈夫だと思います、しかしそれより前の底綿津見の龍神は「サクラウチ」だったとして良さそうですので、大山祇となって静岡へと移住したのでハテツミが後釜に指名されたとなるのでしょう、なぜなら愛媛県の大山祇神社には鹿児島に大山積がいた伝承を残していまして、私も以前にご紹介しています。
 ↑ 大山祇神社にある「案内板」、この中に「亜田国主事勝国勝長狭命」という名があります、これが大山積と紹介されているのです。
 
 自分のブログから引用すると「この名前から大山祇(サクラウチとは限りませんが、可能性は高い様に思えます。)は亜田国の国主であった事が分かります。※これを書いた頃は大山積と大山祇の違いが分かっていなかった頃だと思います

 亜田国とは鹿児島県西部の古い国名として日本書紀にも登場し、その中で「吾田の長屋の笠狭の岬に着きました。」とあるそうです。

 着いたのは大山祇ではなく瓊瓊杵命(ニニギ)なのですが、偶然にしては出来過ぎで亜田国を象徴する有名な岬だということも伺われます。

 大山祇の名前、「長狭命」も「長屋の笠狭」から採られたものと想像出来ます。

 古代史をみていて何時も思いますが、本当に日本中アチコチと移動している事を感じています、しかし大山祇の最初の本拠地が鹿児島にあった事は確実だと思います。(生まれた地で支配地とする方が適切なのかも知れません。)

 では「事勝国勝」の意味はというと、ホツマツタヱには「事代主」の言葉(役職)の説明があり、大物主の代理、即ち「事」は仕事という意味でそのまんまだと分かります。

 なので「事勝国勝」の意味は、「仕事は戦に勝つことであり、国を勝たせること」という意味にとれると思います。(まさに将軍に相応しい名前ですよね、笑)」と書いていて、我ながら良い考察を書いていたと思います。(笑)
 
 大山積が底綿津見を兼ねていたのか一緒に開発していたのか、疑問は残りますが、ともかく、大山積と底綿津見とは関係している事だけは確実だと分かります。
 
 龍王山の数ですが、岡山県が24、広島県が16、香川県が7、徳島県が4、山口県が3、大阪府が2と圧倒的に岡山県が多くなっています。
\(◎o◎)/!

 この証拠は龍王たちの拠点が明らかに「岡山県」にあった事を示しています!!!!♥

 特に月王家のシャカ族がいたのは「岡山県」で間違い無いのでしょう!
 
 マサカの展開で予想外過ぎるのですが、それ以外に説明出来ないと思います、また熊本県にも龍王山があるので、クナト王も龍王の一人だったと言えるのだと思います。(二代目からは猿田彦となり、龍王では無くなった可能性が高くなりました。)

 なので、龍王宮神社と併せ、龍王山と名のつく所は龍王と強く関係する地であったと考えられる場所になります。(山頂は宮というより祠だったと思います、山の神を祀った所かもしくは龍王の葬られた山だと思います。)
 
 恐らく、全て海の見える所がほとんどだと思います。
 
 敵は陸路から来るのではなく、海路をやってくる事を想定していますので、西暦0年頃は制海域の方が大事だったと分かりますね。(ワダツミ三神の解釈。)
 
 少なくとも、龍王山とか龍王宮神社とかの場所は2000年前の龍王がウロチョロしていた所になりますので、お好きな方は行って見て下さい。
 
 という事で、インド系日本人は瀬戸内海の岡山県を中心とした所に土着して、支配領域を広げていったと分かってしまいました。

 これは絶妙に徐市たちのとった行動経路と噛み合っていないと思えます。(わざと会わない様に富士山へと向かった様に思えます。イヤハヤ最初期から日本の支配権を巡ってギクシャクしている様子が見えて来ましたね。)
 
 いやぁ~~っ! 古代の事が分かる、分かる、中々打ち止めになりませんね!

 執筆が進まなくて困りますが、気になると途中で止められませんよね~♥

 龍海