大三島の大山祇神社にあった紹介文の中に「大山祇」の擬神体という紹介で「亜田国主事勝国勝長狭命」という名前が書いてありました。


 この名前から大山祇(サクラウチとは限りませんが、可能性は高い様に思えます。)は亜田国の国主であった事が分かります。

 亜田国とは鹿児島県西部の古い国名として日本書紀にも登場し、その中で「吾田の長屋の笠狭の岬に着きました。」とあるそうです。

 着いたのは大山祇ではなく瓊瓊杵命(ニニギ)なのですが、偶然にしては出来過ぎで亜田国を象徴する有名な岬だということも伺われます。

 大山祇の名前、「長狭命」も「長屋の笠狭」から採られたものと想像出来ます。

 古代史をみていて何時も思いますが、本当に日本中アチコチと移動している事を感じています、しかし大山祇の最初の本拠地が鹿児島にあった事は確実だと思います。(生まれた地で支配地とする方が適切なのかも知れません。)

 では「事勝国勝」の意味はというと、ホツマツタヱには「事代主」の言葉(役職)の説明があり、大物主の代理、即ち「事」は仕事という意味でそのまんまだと分かります。

 なので「事勝国勝」の意味は、「仕事は戦に勝つことであり、国を勝たせること」という意味にとれると思います。(まさに将軍に相応しい名前ですよね、笑)

 天忍穂耳にも似たような名前がついているので、死んだ後の諡ではないかと思っています。

 さて、長狭命の「長狭」ですが、千葉県に地名として残っていました。

 今は鴨川市となっていますが、明治頃までは長狭郡の名前で残っていました。

 ホツマツタヱには大山祇が相模の小野を開いた事をお伝えしましたが、当然千葉にも近く、海軍も持っていたことは大山祇神社の伝承や小野や和邇氏、尾張氏などが海人と呼ばれている点からも符合するので、長狭郡を新規開拓して自身の名前を冠した可能性が高いと思います。

 この様に各地に残る伝承を正しく解釈していくと、古代の様子が浮き彫りになっていく印象を他の事例からも感じています。

 しかしながら、地方の伝承は軽く見られておりインターネットでは全てを知ることは難しい現状があります、しかしインターネットが無い頃に比べれば遥かに調べやすい環境になっています。

 地方の研究者がネットに載せた情報により、新たなる発見が生まれている事をお伝えしたく思います。