「あなたに会いに来ました」と私は呼びかけよう、そして広大な雪渓を抱いた奥穂高の頂に向かって手を振る、というのが予定の行動だった。

だがこの夏、雪渓の残雪は少ないようだ。手も振らなかった。

八月のある日、私は上高地と高瀬川渓谷を巡る総勢29人、1泊2日のバスツァーに参加した。メインの上高地に到着しシャトルバスを降りると予想を遙かに越える賑わいで、密かな私の感傷など吹き飛んでしまう。3時間の自由行動ではバスを大正池で下車して河童橋のバスターミナルまで歩く、河童橋付近の散策をする、そこから明神池までの往復2時間を歩くという3つのコースがあったが、私は後者を選んだ。シャトルバスの中で同行の士を募ったら1人だけ「せっかくここまで来たのだから」と応じてくれた。限られた自由時間は3時間足らずである。手渡された昼食弁当は明神池でいただくことにして直ちに目的地に向かうことにしたが、その前に娘に電話を入れる。同好の士ならぬ同行の士、Sさんも留守番のご主人に電話を入れるという。穂高の山の姿を見て私は軽い興奮を覚えていた。

「いま上高地、すごくいいお天気よ。穂高、とてもきれい。」思いがけず目の奥がジーンと熱くなり声がくぐもる。「今年、雪は少ないみたい」ますますいけない。なんでこんなところで涙が出てくるのだ。「こっちは雨が降ったけど」私の状態を察知し、笑いながら娘も感染して少し鼻声になっている。「これから明神池まで行ってくる」すぐに冷静になったが涙は頬に残った。昔から私は涙腺が緩い方だったから歳の所為とはいいたくないが、涙を拭いながら電話ボックスを出る時Sさんにそれを見られてしまった。




11年前に娘とここに来たことがあるんです」私は涙の言い訳をすることになる。

「その時の事を思い出して何だか胸が一杯になってしまって」と。




バスターミナルから離れる程に人の数は減り、明神池に向けて針葉樹林帯の中の道を私たちは歩いた。木々は太く高く密に茂って、幾重にも重なった枝葉から洩れる午前11時半の陽光は斜めのスクリーンの帯になって差し込み、根元を覆う熊笹に注いでいる。

「ああ!とてもきれい」「来てよかったわ」とSさん。道はまもなく梓川と平行して遡る。

ざーざーという水の流れの音と、鶯の鳴く声と・・・。


あの日もこの光景だった。この道は横尾まで約三時間半かかる。それから三時間登って涸沢カールに。一泊していよいよ頂上を目指す2日目は雨だった。

登山に素人の私たちは用心して諦めて帰ることにした。

「仕方なく雪渓を滑りながら降りてきました」その夏は残雪が多く私たちはアイゼンさえ用意していなかった。山のお天気は変りやすい。「2時間も降りて来ると雨が上がって陽が差しているんです。私は残念でならなくて…下山する途中で何やら揉めているご夫婦に出合ったのです」奥さんはもう一度登りたいといい、ご主人は帰ると言う。私は渡りに舟とばかりその奥さんと登る相談をした。「娘はそのご主人と降りることにしたんです」どうやらご主人も奥さんに、娘も私に引っ張られての登山だったから、同じところをもう一度登るなんてとんでもなかったのだろう。バスターミナルまでの同行をお願いして後は自分1人の旅となってにこにこしている大学受験前の娘と手を振って別れた。



「こんにちは」山で行き交う人はそう声を掛け合う。完全装備でこれから山に挑む人々やグループ。山から降りてきた人たち。時間と体力さえあれば私も観光ではなく山に登る人として今もここに来たかった。




あの時の明神池は通過点でしかなかったが、道から逸れて少し奥にある池に初めて出会う。明神岳と樹林と寡黙な池にはっと視線を奪われ、吸い込まれそうな神秘が漂う。『幽邃(ユウスイ・景色が物静かで奥深い)極まりなく』と案内書にあった難しい形容の意味を知る。ここには穂高神社の奥宮が祀られている。私達は美しい背景をバックに写真を撮り合い、昼食を急いでとった。

「あまり旅行等もしてなかったのですが、この頃は誘われたらそれを機会に出る事にしています」とSさんは言う。ツアーの中の11人は私たちのグループだが知人の友達、友達の友達という関係で、私などは誘ってくれた友人以外は全部初対面だったが目的地が上高地とあって参加することにしたのだ。

「連れの人達は歩かないというし、どうしようかと思っていたのですが誘って頂いて良かったです」

いいえ私こそ、誰もいなかったら1人でもと思っていましたけれどお連れがあった方が楽しいですし、後で梓川の川原におりて水に触ってみましょう」Sさんに水の冷たさを知って欲しい。

娘と涸沢ヒュッテで迎えた朝、ヒユッテの狭い洗面所で先に歯を磨いていた彼女は「冷たい!うがいが出来ない」と叫ぶ。何を大層なと、後から私は歯磨きをし、口に水を含む。歯茎に凍みて痛い。頭の芯にズキーンときて、こめかみが疼く。  

「そうか、雪解け水だからね」真夏に指が切れる程の冷たい水で口を濯ぎ、顔を洗う贅沢。北アルプスの大きな自然の中に居ることを私たちは改めて実感した。



「ほんと冷たーい」とSさん。梓川の透き通った水に掌を浸すと手の骨にまで冷たさが

伝わってきた。私たちはそれぞれハンカチを濡らして絞り、首筋に当てながら歩く。

山小屋では登山者を全て受け入れてくれる。だからシーズンには登山者であふれて「丁度鰺の開きが半身を重ねるように知らぬ人間同士が重なりあって寝るのです」とSさんに話ながら帰途を急ぐ。




明日頂上を目指すために早く眠りたいのになかなか寝付かれなかった。そこここからい

びきが聞こえだし、やがて合唱となるのを聞きながら、いち早く寝息をたてている19歳の娘を抱くようにしてそれでもいつの間にか眠った。

娘と別れ大阪から来たTさんと山道を引き返したが、私達は登るにつれてお天気が崩れだし昨日の宿だった涸沢カールに付いたときは合羽を着なければならない程の雨になっていた。ところどころに色とりどりのテントが張られ、昨日、娘と夏スキーをする人達を眺めた雪渓を横切り細い道に入る。




何気なく始まったその登山道はそれまでの私の乏しい登山経験を大きく書き換えるものとなった。

東洋の寺院の並び立つ尖塔のような岩山をザイテングラードと呼ぶのを後から知ったが、そこが山頂に至るルートであった。前を行く人の靴の跡を辿る他に安全な足場は無い。それもともすれば足下から崩れて岩石が転がり落ちてゆく。十キロ程のザックが岩に触れただけでもバランスを失ってふらつく。時にザックを先に揚げてから大丈夫と思われる岩を頼みに縋りながら高い段差をよじ登る。雨は降り続いている。




私はなんと大胆な計画を立てたのだろう。その前の年、私達親子と知人ご夫婦と高山に泊まり、次の日、上高地に来て河童橋から奥穂高岳に初めて対面した。その美しい姿に感激し、この山に登りたいと思ったのがそもそもの発端だった。それが並大抵でないことは想像出来たので、その時に備えて家の近くの低い山に何度も登る。脚力と体力を付けるためだ。山に登らない時は時間を作って近くのグランドを何周も歩くことにした。体重も4キロ減らして準備が出来たつもりでいたが甘かったなという思いがちらちらと心を過った。辺りはガスって頂上を目指す何人かの人とTさん、そして何処まで続くかと思われるザイテングラードの他はガスって何も見えなかった。

やっと岩場が終わると雪渓の斜面をトラバースする。5つも歳上のTさんだが健脚で、私は遅れないように付いていこうとするがどうしても間隔があいてしまう。何度も足を止めて私を待ってくれる。苦しい。シャーベット状になっている雪の表層を掻いてきれいな層の雪を口に含んだ。高度の所為か頭が痛いし体は鉛のように重い。後から来た何人かの人達が私達を追い抜いてやがて見えなくなる。やっと穂高山荘が見えてきた。あともう少し。だがその距離がなかなか縮まらない。Tさんは優しく励ましてくれる。「あとは私のペースでゆきますからどうぞお先に山荘へ行ってください」何度もそうTさんにお願いして行ってもらった。足が意志道理に働いていないのだろう。あの時の私はまるで夢遊病者

のようだったと思う。夕暮れが迫っていた。二人連れの男性に道を譲ってその姿はすぐ見えなくなったのに私はなかなか行き着かない。もうそこが山小屋というところで遭難することがあるというのはこんなことなのだろうなどとぼんやり考えていた。

漸くその日最後の登山者として山荘の玄関に立ったのと、心配してそこに出てきたTさんと出会う。通常ならば涸沢カールからは二時間半のルートであるという。「あまり遅いので…・どうしたのかと思って」

その言葉に返事をする気力もなく、暫くは呆然とそこに立っていた。

少し休憩して我を取り戻す事が出来た。夕食を摂りながら明日の予定を相談した。お天気の事が心配されるのとそれによってどんなコースをとるかが決まらずにいた。食堂ではそれこそ老若男女、いろいろな世代、登山の熟練の度合いも様々な人たちがいた。尋ねると私たちがこの日取ったコースが下山の場合も最も安全で最短のコースだということだった。中でも初々しい若いカップルが熱心に話し合っている姿が目にとまった。どう声をかけたのかも忘れてしまったが彼等は新婚旅行で来たこと、明日のルートを奥穂の頂上を経て前穂高へ吊り尾根を渡り紀美子平から岳沢、そして涸沢カールから上高地へ降りる予定にしているが天候のこともあり新妻の決断にかかっていることを知る。私も天候さえ良ければその予定だったのだが…・・。どうやら奥さんは登山初心者であるらしい。勿論、経験者のご主人の十分なサポートがあるのだ




翌朝はやはり雨だった。若い夫婦は吊り尾根を渡るコースをとって早くに出発していっ

た。私たちはそれぞれに、Tさんは涸沢岳、私は北海道からきたという女性二人連れの3人で奥穂高の山頂を目指す事となった。

頂上へは屹立した岩壁に備えられた鉄梯子を登ることから始まった。それを登り終わるとこの壁を巡る細い足場を辿りながら暫くのぼった。やがて西穂高に行く岩尾根と山頂に向かう道とに分かれる。私たちは20分程で遂に山頂に至る。                  

3190メートルの高所に生まれて初めて立つ。といいたいところだが実際には怖くて立ち上がることは出来なかった。 

雨は降り続き、晴れていれば360度の展望が可能で北に槍ヶ岳や遠くには中央アルプスの峰々、南側眼下には涸沢から上高地まで見えるという素晴らしい景色が灰色の雲に私たちが包まれて見えない。残念だ。私たちはせめてもの記念に祠を背景に写真を撮り合う。これが明神池の奥宮の嶺宮だったとは当時は知らなかったが…。山頂は狭い。後から来る人たちの為に場所を空けなければいけない。私たちはこわごわと山頂から降りた。


再び、穂高山荘に顔を揃え、北海道からきた女性二人とTさんのお連れとなった三十歳前後と見える女性の5人で下山を開始する。山を下りるのは登る以上に神経を使う。Tさんが道すがら教えてくれたのだか、昨日穂高山荘に着いたのは私が最後ではなかったという。私より1時間以上も後から、たった一人で真っ暗闇のなか山荘に到着したのが、Tさんと涸沢岳に登った女性だったという
 今朝一緒に登るとき彼女の手には小さな花束があった。登る途中は口数も少なく、思い詰めた表情で顔色も青ざめて見えた。気が付くと花束はその女の手から消えていた。何処かの場所に手向けられたものか、あるいは谷へ投げられたものか…。彼女は毎年この時期にここに来るということだった。Tさんはその様子から山で遭難し、亡くなった友の弔いのように感じられたという。かつての登山仲間か、恋人かも知れない等と私たちは想像を逞しくした。彼女はTさんと槍ヶ岳や蝶ヶ岳等の話をしていた。けれど花束を手向けた人については終ぞ語ってはくれなかった。小柄で目のくりくりとした、小麦色の肌がいかにも健康的なその女性の胸に深く秘めるロマンを聞きたかった。彼女は東京の人だったと思う。北海道からの人たち共々に二度と会うことはなかった。

Tさんとは次の年の9月に八ヶ岳に、その次の年には尾瀬に行った。その後私は山へ行

く時間がとれなくなった。Tさんとは今も年賀状を交わしている。今年もきっといろいろな山に挑戦しているに違いない。

私と別れTさんのご主人と上高地で別れた娘は売店での買い物を楽しんで時間を過ごしてしまったらしい。解放感にひたり、のんびりとしすぎて名古屋からの最終の汽車にも乗り遅れたという。

『ぜんぜん行きたくなかったのよ、本当は。でも今はすごくいい思い出になっている。あの時一人で帰る時間は楽しかった。機会があったらもう一度登ってみたい』

そう、一度山に登ると年を経てからでもきっと又行きたくなるものらしい。




私もそうだった。高校の時、山岳部の友人からさそわれて夏休みに一般参加の登山で丹沢山に登った。初めての経験で体がみしみしと軋むような感じだったが、周りから声を掛けられ、励まされて頂上に到着し、よしよしと誉められて当時流行っていたソーダラップのグリーンの粉末に清水を注ぎ、発泡させて飲んだ時の美味しさが忘れられない。下山は更に過酷なもので、石がごろごろしていた急斜面を『走れ!』と号令されて走って降りた。部外の者が参加しているのだから少しは加減して欲しいなどとどぶつぶつ言いながらだったが、それが私の登山初体験になった。


「山をおりてきてこの道で、連れの人たちと話しながら歩いていて私は転んでしまいました」バスターミナルもあともう少しとなった。Sさんにかいつまんで話を聞いてもらう事でその時のささいな事までがあれこれと思い出された。額に傷をして血を拭ったハンカチは借りたままになっている。バンダナ風に鉢巻きをした勇ましい格好で家に帰ることになった。


バスへの集合に残る時間は僅かになっていた。私たちは急いで土産などを買った。私は友に送ろうと一葉の絵はがきを求め、上高地の山小屋風の郵便局に飛び込んだ。ツアーの仲間達はもうバス停に並んでいる。走り書きになってしまったが絵はがきを優しく応対してくれる局員さんに託し漸くシャトルバスに乗り込んだ。「どうだった」「よかったわ。きれいだった」などとそれぞれのコースの話でもちきりだった。

 私はバスの座席から後ろを振り向く。穂高は見えなかったが密かに誓う。『また、あなたに会いに来ます。きっと……』と。