0909 意識と無意識 | 蓼科クロニクル

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The Tateshina Chronicles

  
$蓼科クロニクル-雪・20100115
 
今日も雪でしたが吹雪かず、結晶のしっかりした羽毛のような粉雪がきらきらととてもきれいです。
 
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『われわれは見ようと意識しないものは見ない。「見たいもの」しか見えていない、そのほかにいかにたくさんのものがあっても、それを存在しないものとしてしまっている。』
 
という話の補足説明を書く。
 
この話を 意識 無意識 という枠組みで捉えるならば、脳はあらゆる感覚から入力されたすべての情報を記憶していると考えられる。「記憶」はその情報が確実に「思い出せる」ことによって確認される。
 
したがって、思い出せない記憶は「憶えられなかった」あるいは「忘れてしまった」あるいは「知らない」と日常会話では語られることになる。しかし、脳はしっかりと記録しているのだ。
 
その領域、つまり、それらの記憶が形成する世界を「無意識」と呼んでもいいように思う。その世界はふだんは存在しないものとして、意識の外のものとして認識される、あるいは扱われる。
 
脳は 無意識(潜在意識) と 意識(顕在意識) を繋ぐタスクをある種のルールに従っておこなっているようだ。われわれが自身の意識下において無意識から情報を,記憶を取り出すよう脳にリクエストしても、それはかなえられない。
 
それは失われたと報告される。あるいは最初からそんなものはなかったのだと思わされる。多くの場合それは我々の意識を正常に混乱無く保つためのブレーカーのような働きをしている。
 
記憶という観点から言うならば、われわれの意識(顕在意識)は無意識領域(潜在意識)に包含されているのであって、その逆ではない。
 
無意識は我々の内なる大海である。その海面に波立つものが我々が現実と呼ぶところのものであり、上空からそれを見つめているのが我々が自身の意識として認識するところのものである。
 
海面下に何が隠され潜んでいるのか、知るすべはない。
 
ちなみに、無意識は「意識が存在しない」ということではなく、そこに意識が介在し得ないという意味である。
 
『存在』の反対概念が『非存在』であって『無』ではないのと同じ事だ。本質論で言うなら、存在は「カオスが形をなして認識されたもの」であり、無とは「存在の不在」であり、非存在は「存在として形を保持しないカオス(空・くう)」であると言うことができる。
 
したがって、意識は存在であり、無意識はカオスであるということができるだろう。
 
いささかはしょっているので論理的整合性に欠ける部分はあるけれど、おおまかにいうならそういうことになると思う。
 
ここからさきは、たとえば実存主義哲学や他の哲学のフレームワークで語られることになるので,今日はここまでにします。
 
 
 
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